例年、十一月十九日夜から二十一日にかけて武井の恵比寿(えびす)神社へ参詣するものが多かった。明治二十七年(一八九四)には大門町南の商店では二十日の昼、太々神楽(だいだいかぐら)を奉納し、かなりにぎわった。開所して間もない米穀取引所では祝宴をはる仲買人一同が、予定どおり山車(だし)を恵比寿神社までひいていき、客筋へ祝い酒をふるまった。武井小路の入り口から神社前、岩石町にかけて、通り抜けの狭い小路の両側へ縁起物(えんぎもの)商が露店を所狭しと並べ、熊手、枝縁起、俵(たわら)飾り、桝(ます)大黒、恵比寿、達磨(だるま)などを飾り立てて、群がりくる参詣客に威勢よく商った。
上田の恵比寿講市が大繁盛していることはよく知られており、長野の商店街でも三十年ごろからそれにならって、にぎやかに商売をおこなうことになった。ことに三十二年からは煙火(はなび)の大会を開くに当たり、全商店こぞって大安売りすることに決まり、飾りつけにも工夫をこらした。
三十三年には大門町をはじめ上・下後町、問御所、新田、石堂などの通り沿いはもちろん、元善町、東・西之門町、上・下西町、横町、権堂町などにかけて、いずれも「本日祝売」の札を竹ざさに掲げて軒前に押し立て、あるいは小球灯をつるして景気づけていた。とりわけ大門町の喜多の園・蔦屋の積み荷、山内蜜柑(みかん)問屋のみかんで描いた文字、後町の中越屋の箪笥(たんす)飾り、甘利塗物店の箪笥・茶箪笥および漆器類を店頭高く積み上げて作った大きな門、問御所の能登屋の飾り、西後町の島屋魚店の乾物でつくった額、寒天でつくった帆掛け船、横町塗物商の飾りなどは目だった。また西之門町では、よしのやに共同福引所を設け、そこで現物と引き替えた。
長野市東部の高土手(現長野市立柳町中学校西側、三輪田町)に沿って打ち上げ煙火の陣屋は一五ヵ所を数えた。腕ききの「煙火天狗」としては、長野市の山勝・石黒・三戸部、(西長野町)北沢・西沢、川柳村西沢、大豆島村轟、風間村古(小も)岩井らが有名であった。朝方五時に合図の祝発をおこない、引きつづき八時ごろより一二時まで絶えることなく打ちあげ、午後二時半から夜までつづけた。小さな玉のなかにどうしてあんなに多くの色が仕込まれているのかと観衆をびっくりさせるのが煙火師の力量であった。しかし、三十年代はじめまでは各陣屋は思い思いに打ち上げていたので、どの煙火がだれのものかわからなかった。年々煙火の技術は向上していき、三十八年の恵比寿講での、東京玉屋の五分間五〇発の投げ込み速射は田舎では珍しいことであり、拍手喝采(かっさい)を浴びた。また大門町鈴木洋物店ほか三商店が共同して、「天長節祝賀」として小判石けん引替券入りの煙火を打ちあげるなど、趣向をこらした。
当日祝売の買い物を兼ねて、煙火見物のために近郷の村からも大勢の人が入りこんできた。長野駅に降り立った鉄道利用者は三十八年の場合、二十日の朝から正午までで豊野以南のもの約三百五十人、上田以北のもの五百余人とみられたが、さらにそれ以後の煙火目当てに降車するものを加えると、合計一五八五人にのぼった。煙火の見物人はとくに城山館の下芝原から田町、岩石裏、権堂、鶴賀などにかけて各所に人の山をなしていた。権堂の各楼では座敷を押し開き、赤毛布を敷いて見物させた。夜の権堂料理店もまたたいへんにぎわった。明治四十年の恵比寿講の人出についてみると、鶴賀遊郭の客は一七八七人(前年比八〇〇人増)、その散財は二〇八〇円(前年比五〇〇円増)であった。また各興行の入場人員をみると、堂庭の見せ物は一四四〇人、三幸座一〇一四人、千歳座四八三人、うかれ節九七人であった。