明治二十四年(一八九一)四月二十四日、午前二時ごろ、東条村字中条の民家から出火し、東南の風にあおられてみるみる四方に延焼した。消防組の努力も効なく、東条村・松代町・西条村の一町二ヵ村にわたって、七〇〇戸をつぎつぎに焼失し、同日午前七時ごろ鎮火した。同日、県から小野田書記官が現場に出張し、師岡郡長および関係町村の当局者とともに救助の指揮をとった。松代小学校を救護所にあて、寺町證蓮寺、鍛冶町祝神社、殿町海津座劇場を長野県救出所にあてて、罹災民(りさいみん)の救助をした。なお、旧藩主真田幸民(ゆきもと)から義援金一〇〇〇円が贈られ、皇室からは侍従毛利左門が派遣され、七〇〇円が下賜された。地元においても松代町長金井好美、県会議員鎌原仲次郎らが発起人となって救助資金を募集し五八五〇円を集めて救助にあてた。
松代町の焼失戸数は表32のように六五五戸であった。内訳は、現住戸数五八六(全焼五八二、半焼四)、空き戸数六九(全焼)、銀行二(全焼)、神社一(全焼)、寺院七(全焼六、半焼一)、郵便電信局一(半焼)、罹災人員は二六四三人におよび、焼死者男二人、負傷者男五人、女二人であった。これを字町別に示すとつぎのようになる。東条村は焼失戸数六四(全焼六三、半焼一)、神社一(全焼)、罹災人員二八三人、焼死一人であった。西条村は焼失戸数二九(現住戸数二九全焼)罹災人員一〇九人であった。
大火の約一年後の二十五年四月二十五日の『信毎』は、松代町の家屋再築のようすを「大火後満一年となる同町の家屋再築の模様を聞くに、再築の資力ある者はすでに八、九分建築が終り、残余の者も今なおぼつぼつ普請中で思いのほか進んでいる。しかし、戸数の減少は免れないところである」と報じた。