長野町の大火

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明治二十四年(一八九一)五月四日、午後一一時二〇分から五日午前四時におよんだ長野町の大火は、東之門町の民家から失火、伊勢町・岩石町・元善町の一部に延焼して、戸数五九戸、仏閣二、棟数約二百を焼失した。警官や消防夫の懸命の初期消火も効なく、強風にあおられて火勢が強まり二十余年ぶりの大火となった。家財道具を片づけ避難した地域は、元善町・東横町・岩石町・東之門町・伊勢町・法然堂町・新町の七町におよんだ。避難場所は城山・淀ヶ橋・岩石裏・寛慶寺などで、なかでも寛慶寺境内には七、八千駄(だ)(一駄は一五〇キログラム)以上の荷物が運びこまれたという。


図7 明治24年5月4日の火災区域図(斜線部分)
(『信濃毎日新聞』記事より作成)

 この火災には、県から小野田長野県書記官が派遣され、警察本部職員・巡査教習所の教習生・各駐在所巡査などが防火に尽力した。各町内の自治的な消防組も消火活動に参加した。消防器具はいちおう整備されていたが、この地域は長野町第一の水不足の場所であり、ただ傍観のありさまであった。それでも火が伊勢町に迫るころは、各所から水を引くことができて、効果的な消火がおこなわれるようになった。なかでも印象的だったのは、上高井郡須坂町の消防組が、遠方から新調の消火ポンプをひいてかけつけたことであった。このことにより、消火活動に力を得て、延焼をくい止めることができたといわれている。火災がやんだ五日には、大勧進において市中有志による炊き出しがおこなわれ、罹災者への救護活動が進められた。上水内郡役所(立町)は上水内高等小学校(城山)で、長野町役場(立町)は長野尋常小学校(城山)で、それぞれ炊き出しをおこなった。『信毎』は、火災後の五月十二日の社説で、長野町は山を背にした水不足の地域で、一度火災にあえばこれを防ぐことはきわめてむずかしいとして、火防策をつぎの三点に要約した。

① 家屋の建築は、今までのしきたりを大切にする。必ず各戸のあいだに、樋(とい)の境を設ける。二階その他の「窓戸」は土戸か金戸に改める。

② 消防用の水を町々に通し、各所に溜め桶(ためおけ)を設ける。

③ 各小集落に消防隊を組織して、全町が連絡しあって消火活動の統一と連携をはかる。

 さらに、同社説は、長野における防災上の問題点とその具体策をつぎのように提言している。

 すなわち、住居が密集している市街地長野市においては、樋の境を設けることが大切で、これによって、火の伝播(でんぱ)が食い止められるし、「窓戸」の構造では、丈夫な壁土が大火を防ぐ要件であるのに、粗末な板きれを使用しているのは困ったものである、と警告した。また、どんなに消防夫が勇敢で手慣れていても、水がなければどうしようもないので、長野区会で決議したように、消防用水の確保に全力をあげるべきであるとして、水利の問題も指摘した。最後に消防組織にも言及して、昔から横沢町・桜枝町・田町などには左官・鳶(とび)職・博徒(ばくと)が多かったためか、屈強の働き手があって大活躍をしたが、何をやるにしても号令一つで行動するというわけにはいかず、あたかも規律なき軍隊のようなものであったので、これからは、各町に必要なだけの消防隊を組織し、定期の演習をして、連合・統括する機関に指揮権を託して行動すれば、消防活動も統制がとれて敏速・活発なものになるであろう、といった内容であった。

 明治二十四年六月二日夜、強風下の午後一一時ふたたび、上西之門町の商家の物置で失火し、四方に燃えひろがり、桜枝町・上西之門町・下西之門町・元善町・城山の五町が火炎に包まれた。焼失総戸数二六五戸にのぼり、内訳は元善町一三二戸・東之門町六四戸・上西之門町三一戸・下西之門町二五戸・城山九戸・桜枝町四戸であった。焼失の棟数は、五〇〇以上といわれた。

 この火災によって、善光寺仁王門、善光寺大本願、長野町の教育の中心である上水内高等小学校、長野尋常小学校などが焼失した。さらに院坊の諸寺の大半、寛慶寺の寛喜庵、城山県社の神楽殿、旧行在所(あんざいしょ)なども焼失したが、善光寺本堂、山門、大勧進、城山館などが大火から免れたのは、せめてもの幸いであった。


図8 明治24年6月2日の火災区域図(斜線部分)
(『信濃毎日新聞』記事より作成)

 浅田知事は、長野警察署に出張して万事を指揮し、警察本部は全員総出動で火災の処理にあたった。塩崎・中津・松代・屋代・須坂などの各警察所長は、巡査と消防方を率いて応援し、河東の須坂・松代・屋代・中野や稲荷山・川中島などの近郷近在の消防隊は、いずれも器具持参でかけつけ防火にあたった。その人数は万を数えたという。また鉄道局長野出張所員は、新鋭のポンプを使用して大本願の消火にめざましい働きをした。

 上水内郡役所は、公園地内の勧工場と三幸座に炊き出しと避難所を設けた。長野町役場は、大門町丸為商店に臨時出張所を設けて、炊き出しをはじめ一切の事務を処理した。火勢は猛烈であったが、避難が円滑におこなわれた結果、死人はなく軽傷者がわずかに出ただけであった。また、五月の火災のときのように持ち主不明金の届け出もほとんどなかった。焼け跡の片づけのために出動した人は、二三〇〇人にのぼり、近郷の安茂里・芹田の両村からもポンプをひいて焼跡片づけを手伝い、遠くは上田・小県からも来援者が多かった。

 大門町・西町・東町・横町・栄町・桜枝町等々の火災現場近くの町は、火災の当夜荷物をまとめて避難したため、商店はすべて休業となった。上水内高等小学校は焼失したため、公園地内の勧工場・三幸座・物産陳列場の三ヵ所に教場を仮設し、一〇日以内に授業を始められるようにした。被災民は焼け残りの土蔵に庇(ひさし)の掛け造りをしたり、掘っ立て小屋で雨露をしのいだ。横沢町内では、各戸に被災者が入り、何世帯かの同居が始まった。

 『信毎』は、火災直後の六月五日の時事評において、つぎのようにいくつかの提言をしている。

①仁王門から山門のあいだは、遊歩道または公園にすべきである。②元善町の商家は、三線路(千歳町)に移動せよ。③仁王門上下に商店をつくるとすれば、石造にせよ。④伊勢町や車坂大勧進前の商店は引き払って、停車場付近に大市街をつくれ。⑤用水を完備し、一元的な消防隊を組織すべし。⑥新築の家屋の造成には火防線をつくり、戸は土戸か金戸にすること。⑦大火から善光寺を守るために、元善町の家屋は二階づくりを止め、善光寺専属の消防隊をつくること。

 さらに同月七日の社説において、元善町市区改正について賛成意見を述べている。その理由の第一は、長野町の規模を大きくし、将来発展できるようにするためであり、第二は善光寺伽藍(がらん)の保存のために一万坪の火防地域を確保するためであった。

 このような世論を背景にして長野町会は、元善町家屋制限を大勧進・大本願の両寺に請求することを決議し、六月九日に全町民の世論を確かめようと、各区長を城山館に招集し協議した。その協議内容は「元善町家屋制限、同道路拡幅のこと」であった。その後、防火対策をめぐって元善町住民、両寺、町役場の三者間の対立がつづくことになった。

 火災後一年以上経過した二十五年八月十六日、『信毎』は長野町家屋新築地の道幅について、「このごろ後町、新田、石堂町あたりに家屋を新築するようすをみると、少しも道を広げないどころか、ややもすればせばむるの気味がある。市街が繁華になるに従い、人馬等の往来がますます激しくなるのは当然だが、せめて新築の場合だけでも道幅をずっと広げるべきである」と報道している。

 この大火に対して、『信毎』を中心にした義援金の募金は、全県的におこなわれて復興への大きな礎石となった。