長野町の消防組は、自治的な江戸時代からの各村落ごとの小規模な火消し組から発展し、全体を統一した近代的な消防組織が成立したのは、明治二十年代の後半であった。
明治二十年(一八八七)一月、鶴賀町と鶴賀遊郭消防組の出初め式には、組合およそ二〇〇人が参加し、市中を回ったのち、県庁・警察署・郡役所の前で恒例の梯子乗(はしごの)りなどがあり、さすが気負(きお)いの出初め式だと見物人がにぎわしかったと伝えられた。また、長野町の大火災後の二十五年一月には長野町の町内一三ヵ町の消防組が合同で出初め式をおこない、諸器具装束を披露(ひろう)し見事な木遣(きや)りを実演している。行進する隊列は、ラッパ隊を先頭にして数百メートルにもおよび、じつに見事であったと当時の新聞は伝えている。個々ばらばらであった各地区の消防組も、大火後は相互に連帯しながら統一への気運を盛り上げていったのである。二十六年一月の出初め式に参加した消防組の編成順序は表33のようであった。
いっぽう長野町では二十六年一月、自治的な町内別消防組とは別に町役場直属の消防組を設置しようとする計画があった。この計画によると名称を長野消防組とし、人員は三〇人で、役員は委員長一人、委員二人で、委員二人中一人は役場職員中から兼務することになっていた。委員長および委員は、町長の専任事項となっていた。消防器械は役場に常備し、当町を離れること一里(約三千九百二十七メートル)以上二里以内の大火には、本町を代表して出動することと、本町内の役場・学校・病院等の公共建物の火災にも出動し、消火活動に当たることとした。
各町村に設置された消防組・水防組等は、二十三年三月の「消防組・水防組所轄警察官監督指揮下県訓令」により、所轄の警察官の監督指揮下に置かれることになった。長野町においては二十七年三月勅令第一五号による警部長からの訓示にもとづき、各区に分裂した従来の消防組を廃止して、新しく消防組を設置するための協議会が開かれた。その内容は組頭一人・小頭若干人・消防手若干人などの選出であった。これは二十七年五月の「消防組規則施行細則制定県令」の制定以前のことであった。この施行細則は消防組名・組織・消防組員の選任・消防費・消防器具・服務・訓練等詳細に規定されていた。同年同月の「公設消防組設置県告示」によれば、現長野市域において公設消防組が設置されていたのは、更級郡の塩崎村・中津村・青木島村、埴科郡の松代町、上水内郡長野町の大字長野・大字西長野・大字南長野・大字鶴賀、同郡三輪村・吉田村・若槻村などであった。
若槻村では明治初年、すでに竜吐水を用意している地区もあったが、二十四年には若槻村私設消防組を組織し、二十八年九月には公設消防組としての認可がくだった。認可がおりたころの組員は一〇〇人で、村全体を指揮する組長のもとに、各地区ごとの部長とその下に数人ずつの小頭が置かれた。各地区に火の見やぐらが立てられはじめたのは、二十七、八年ごろからである。地区にはそれぞれ消防器具置き場を設けて、これをポンプ小屋と呼んだ。
村内の壮年を選んで組織された消防手には、はっぴと帽子が貸与されたが、紺のはっぴの背中や襟(えり)には「何々村消防組」の名があざやかに染め抜かれており、消防手たちは夜寝るときも帽子とはっぴを枕元に置き、ひとたび半鐘がなればいつなんどきでも着て飛び出した。村内だけにとどまらず、鳶口(とびぐち)をかつぎポンプ車を急がせて、一里、二里の遠い火事現場へもかけつけた。一隊の先頭には、常にまといばれんが突っ走り、組々の雄壮ぶりを象徴した。まといばれんの一筋一筋には、そのつどの手柄の大きさによって、県警本部長から金筋を入れることを許された。