千曲川・犀川の水害と治水事業

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明治二十四年(一八九一)七月、上水内郡芹田村大字中御所に沿った裾花川は、連日の長雨のため、にわかに水量を増し、沿岸住民の水防活動にもかかわらず、ついに中御所から安茂里村をへて大町にいたる県道の二〇〇メートルを破壊し、堤防を崩して水勢を三分した。その一つは東に向かって押し流し、長野町字石堂町と近くの鉄道庁出張所を襲(おそ)い、鶴賀町から芹田村大字中御所・栗田・若里・川合新田と大豆島村の諸耕地に浸入し千曲川に流入した。裾花川では水防夫一人、湯福川ではこども一人が溺死(できし)し、浸水の家屋・田園の被害は大きかった。とくに大豆島地区は犀川と裾花川の両堤防決壊のため、過半数の家屋が被害をこうむった。


写真29 明治24年大豆島村水害地図 大豆島村・風間村をはじめ、芹田村・朝陽村が水びたしになった
(東風間区有)

 七月は月初めから連日降雨がつづいたが、十九日朝から激しい雨で大小の河川があふれて、なかでも芹田村地域の裾花川は水勢が強く狂奔(きょうほん)状態であった。同日午後二時一〇分ごろから怒濤(どとう)と風雨がいっしょになり、同村岡田一番地の道路敷の土手を崩し、水勢はさらに強まり東に面する田畑を侵した。村民多数参集して、急を諸官庁に知らせ警鐘(けいしょう)を打ち鳴らし、手に防水の材料をたずさえ必死に防御(ぼうぎょ)にあたった。しかし、同日午後八時になって、防御のかいなく第二の堤防も崩壊して、みるみるうちに一面の青田を浸し、怒濤に風勢が加わってきたので東方の村民はわめき叫びながら避難した。このとき早くも第一の水先は停車場(長野駅)から石堂町と中御所の半分を浸し、床上浸水一五センチメートルとなった。県の小野田書記官、島田参事官をはじめ警部長、郡長および郡吏(ぐんり)、警察官らが停車場に到着した。軽井沢からの下り列車が汽笛を鳴らして到着したので、急いでこの数十人の乗客を三線路(千歳町)に避難させた直後怒濤が押し寄せた。

 明治二十四年八月四日、旧七ヵ町村の総代二〇人が参集して裾花川堤防組合の協議会が開かれ、今回の堤防破壊にかかわる控堤防修理・公用土地買い上げなどの予算一八八四円四九銭が決まり、会長荻原政太が会の意見をまとめて、県議会に建議する動議が決定された。

 この堤防工事の第一期工事は同年十二月二十五日落成し、幅九間・長さ六十余間で表裏ともに上等の石を積み上げ、さらにその堤防前へ堅固な枠を一面にほどこしたものである。引きつづいて来春の洪水にそなえての第二期工事に着手することになり、この工事は翌年九月六日に落成した。なお、鉄道庁直轄(ちょっかつ)の工事もこのときまでに完成し、九月十六日に芹田村瑠璃光(るりこう)寺において裾花川堤防組合による完成報告会が開かれた。

 明治二十九年七月中の降雨はまれにみる大雨量で、とくに二十日から二十一日にかけてもっとも激しく、二十一日から犀川・千曲川の両河川が増水し大洪水となった。最低地の水高三〇尺有余(約九メートル)の増水となり、水勢は猛烈をきわめ、各地の橋梁(きょうりょう)を墜落(ついらく)させ、要所の堤防を決壊させた。沿岸諸村の田圃(たんぼ)・桑園(そうえん)の多くが浸水し、道路が破壊され家屋が流失した(表35)。近代的な技術を投入して完成させた犀川の鉄橋も、この洪水により墜落した。


表34 明治24年7月中水害取調表 長野県報告


表35 明治29年洪水被害統計(現長野市域四郡)

 東北信各郡の被害町村は一八二ヵ町村におよび、被害価格は三八九万余円となった。

 千曲川水系各郡の被害

  南佐久郡  一四ヵ町村  二五万五七八九円

  北佐久郡  一七ヵ町村  一五万四九九四円

  小県郡   三二ヵ町村  四七万〇五六八円

  更級郡   二七ヵ町村  五三万六四六五円

  埴科郡   一七ヵ町村  四九万一八六一円

  上高井郡  一五ヵ町村  五二万七八四七円

  下高井郡  二〇ヵ町村  四二万〇七五四円

  上水内郡  三二ヵ町村  六五万三五二六円

  下水内郡   八ヵ町村  三八万二八九七円

  九郡計  一八二ヵ町村  三八九万四七〇一円

 現長野市域の水害状況を概観すると、長沼村では今回の洪水は、千曲川が荒れ狂ったところへ古里村を荒らした浅川が合流したので、一時はあたかも海のようになり、水は堤防をこえること六尺(約一・八メートル)にもなった。なかでも惨状(さんじょう)をきわめたのは戸数四〇戸ばかりの河原新田であった。近年にない大洪水であって、その被害は道路の破壊二四〇〇件、堤防の決壊二一ヵ所、橋梁の流失二八ヵ所、家屋の浸水五〇八戸、田の流失二三九町歩(二三七ヘクタール)、畑の流失三三九町歩(三三六ヘクタール)に達した。損害の概算は合計十四万六千余円で、内訳は大町三万円余、穂保(ほやす)三万三〇〇〇円余、津野一万八〇〇〇円余、赤沼六万五〇〇〇円余であった。

 河東の川田村では、増水した千曲川の濁流(だくりゅう)が、千曲川沿岸の自然堤防からあふれ、町川田北部の千曲川旧河道の低地に充満し、刻々と増水する水勢により、牛島南西部の三ヵ組堤防が水圧に押されて破堤の危機にさらされた。牛島では村中のむしろ・ねこ・畳・俵などあらゆるものを持ちだし、なかには墓石まで運んで堤防の腹づけに杭で打ち水勢を止めようとしたが、ついに破堤し、濁流は牛島・領家に怒濤のように流入して大きな被害をもたらした。

 松代地区では、二十九年七月二十日の朝がたから豪雨が降りやまず、二十一日午前八時ごろになって関屋川が増水し、ついに豊栄村地籍宮崎組の西岸堤防約二十間ほどが崩壊するとともに、下流松代町真勝寺付近の堤防も東西両岸一時に決壊した。そのために西条村北組、松代町の表柴町以下の各町と東条村字田中・加賀井の各組に浸水した。そのなかでももっとも被害の大きかったのは、荒神町・下田町・町寺尾などであった。松代警察署管内一町五ヵ村の被害は、浸水家屋一三四七戸、橋梁流失五五ヵ所であった。

 その他、大豆島村・真島村・清野村など、被害地域は千曲川・犀川合流地点を中心に広がった。