疾病の状況は、県統計書により明治二十年代以降の病死者の病名別人数とその割合をみると、上位は消化器病、神経系五官病、呼吸器病の三種である。
明治二十九年(一八九六)、上水内郡の死亡者は一八八九人で、その内訳の一位は消化器諸病の六五七人(二四・八パーセント)、二位は血行器病の三七五人(一九・九パーセント)、三位は呼吸器病の三二九人(一七・四パーセント)であった。伝染病の死者も二八二人(一五・〇パーセント)あり、幼児の発育不良と貧困からくる栄養不良の死亡が二五三人(一三・三パーセント)であった。また、呼吸器病中大きな比率を占める肺結核は高い死亡率をもち、製糸工場の発展にともなう影響が懸念されてきた。
伝染病は、罹病者に対して死亡率が高い。表36の伝染病患者数と死亡者数をみると、コレラは明治十九年の上水内郡においては、一〇三八人のうち六一五人が死亡するという爆発的大流行のあと激減し、同二十八年には、二三人のうち一七人が死亡した。
ジフテリアは、二十九年ごろから増加し、死亡者が約半数に達する状況がつづいた。腸チフスは、二十七年には二九七人(死亡率一八パーセント)となり、同年、篠ノ井・更級郡地区でも二三四人にのぼった。
赤痢は、二十九年七月以降県下各地に発生して蔓延(まんえん)した。県下の患者は五四八二人、死者一一一六人、死亡率二〇・三パーセントに達した。翌三十、三十一年と大流行し、三十一年の死亡率は二四・二パーセント、じつに四人に一人という高率であり、上水内・上下高井・更級・東筑摩郡に多かった。上水内郡の場合、九六二人の患者のうち二八四人が死亡し、死亡率は二九・五パーセントに達した。長野市は、三十年の赤痢の死亡率が三〇・五六パーセント、腸チフスが二八・五七パーセントにのぼった。長野町(市)には、全般的な水不足の結果、町内を流れる鐘鋳川堰(かないがわせぎ)の水を飲用するものが多いという問題があった。明治二十九年長野県知事は、伝染病の発生など衛生上の立場から飲用を厳禁したが、なかなかやまなかった。
性病の問題としては、明治中期になっても、依然として娼妓(しょうぎ)の梅毒(楳毒)(ばいどく)患者が非常に多いことであった。明治二十八年には受検人一〇〇人につき四・六九人が患者であった。患者の入院延べ日数は五・八七日、患者が治療に要した平均日数は一三日であった。
明治十八年三月、県会において長野県医学校と付属病院の廃止論が再燃し、廃止される運命となった。そこで県は、長野町ほか四ヵ町村の共同公立病院創設計画を立て、県が一〇〇〇円の補助金を出して、関係町村の経営による公立病院の設立が実現した。その運営は各町村より委員が選出され、その任にあたった。病院の設立委員は原山太吉・北沢源八・田中太助・北沢太兵衛・松橋久左衛門・矢島浦太郎や、もと戸長(こちょう)の中沢与左衛門、戸長の樋口兼利、会計係の矢島吾左衛門であった。院長は外山林介であった。地所、建物、治療器械から書籍にいたるまで、すべて県が無償で貸与した。十九年四月に開院した。