長野町は明治二十八年(一八九五)七月、避(ひ)病院を建設するために、城山北の県の所有地を敷地として借用した。この避病院は市制施行後は伝染病院と呼ばれ、三十一年六月工費千四百余円をもって、事務室・消毒室・快期室・食堂・物置・表門・板塀を増築した。さらに四十年八月、腸チフスの続発により患者を収容しきれず、工費一〇八〇円余をもって病舎四棟・事務室・受付所・薬剤室・まかない所を増設した。四十一年七月、伝染病院敷地は一府十県連合共進会会場敷地に当てられることになったので、本病院は大字長野堀切北に移転することになった。
松代町においては明治二十八年九月、海津城址に隔離(かくり)病舎を建設して、伝染病患者を収容した。その後、各町村ごとに建設された隔離病舎は、どれも設備不完全のために死亡率が高く入院を嫌う傾向があったので、松代町は付近の清野・西条・豊栄・東条・寺尾の五ヵ村と協議して、一町五ヵ村組合立伝染病院を松代町字竹山町に建設することになった。その建物は、各地の模範病院を視察してその長所を採用し、四十五年六月二十八日開院式を挙行した。
塩崎村では、明治二十九年にすでに避病院が開設されており、同年の赤痢の大流行にさいし、患者を収容して集団的に手当てを実施していた。当時の病院日記には、消毒・隔離・死亡者の処理などの状況がなまなましく書きとめられている。
小田切村では明治二十九年に赤痢が大流行したあとの三十年、隔離病舎を建設した。小田切村のこの年の経常予算総額一七三〇円のうち伝染病対策にもちいた費用は、支払い分で一〇八六円にも達していた。
若槻村でも明治末期、東条に村営の伝染病隔離病舎を建設した。東条坂上の国道東側台地に、事務室一棟・病舎二棟・消毒室一棟などを設け、まわりに木柵(さく)をめぐらしたもので、村民は避病院と呼んでいた。その後、上水内郡平坦(へいたん)部地方一〇ヵ村(鳥居・神郷・古里・朝陽・若槻・長沼・柳原・浅川・大豆島・安茂里)が、古里村富竹に組合伝染病院を建てたので、若槻の避病院は廃止された。
上高井郡においても明治三十年伝染病予防法の公布を契機に伝染病院・隔離病舎等が各町村に設置され、現長野市域である川田・綿内にもこれらの施設が設けられた。
明治三十年十月段階において、県下各郡市の病院隔離病舎は、新築のもの・民家・寺院・学校などさまざまであった。表38は各郡市の実態である。現長野市域では更級・埴科郡が比較的整備されていた。