瑪瑙堰(めのうせぎ)は失敗におわり中止になったが、長野町の飲用水は、人口の増加によりますますその必要度が高まった。基本的には瑪瑙堰を修理改良することになるのであるが、個人や全町あるいは県段階でも今までとはちがった動きが起こってきた。
明治十六年(一八八三)、北佐久郡小諸町の小林某は、箱清水用水(瑪瑙堰)を修理接続して長野町の飲用水にする仕事を一〇ヵ年計画で請け負うことを、長野町戸長(こちょう)中沢与左衛門や町会議員にはかったが受け入れられなかった。
翌十七年九月二日、ときの大野県令は、長野町の人口が年々増加して飲用水の欠乏と水質の不良が深刻になってきたことにより、長野町・西長野町・南長野町および鶴賀村における飲料水の井水を調査した。その結果「水質不良にして、飲料に適さないもの一〇中六、七にあり、衛生上からもよくないので、改良方法を計画し伺い出すよう」指令した。いままでは町が計画して県に許可を請願していたのに、今度は県が積極的に計画を促してきたのである。
この指令に対し四ヵ町村の戸長のなかには異論不同意を唱えるものもあり、県令の説諭により同年十月、四ヵ町村各二人ずつ計八人の連合会議を開いた。南長野町戸長荻原政太が議長で、①四ヵ町村の各集落までを限度とする、②水利に関する事項は県の処分にしたがう、③工事の計画、調査、水利規則等はすべて県が負担するよう願う、④予算は町費一万円、寄付一万円、計二万円とする、などの内容であった。要するにこの案は、県が青写真をつくり資金援助するなど、かなりイニシアチブを県にあずけたものであった。これで十一月県へ伺ったところ、十二月十九日県から許可指令がでた。
明治十八年二月「長野町、西長野町、南長野町、鶴賀村四ヵ町村連合水利組合」と改称し、三月四日工事事務所が設置された。県が事業に保護をあたえるため、県土木課測量係員が三月十八日から実測を始め、つづいて渡辺・佐藤・菊地の御用係もかわるがわる荒安・大久保・戸隠などの実測にかかり、五月十日には完了した。県令の改良計画指令から、わずかに八ヵ月余のスピードであった。県ではこのほかにも、源水の良否調査を内務省東京試験場へ依頼するなどの援助をした。しかし、この組合は予算上折り合いがつかず十九年八月解散した。二ヵ年後の二十一年五月、再び四ヵ町村連合飲用水改良組合を起こし、水源地を野尻、戸隠の二ヵ所とし、双方の調査をおこない、連合会議や市議会の臨時会、通常会などで審議された。予算はこれまでより二万円増の四万八千余円の巨額にのぼると見積もられたため、県から一万五〇〇〇円の補助を得る案で県へ請願した。これに対し県は、同年五月八日「不許可」の指令を出した。このため、明治十七年以来県の保護を受けながら協議をかさね綿密な調査も進み、実施一歩手前まできた引水計画は、二十一年十二月予算上の理由で休止となった。
このあと本格的な上水道事業は十数年後、明治三十年代後半になるが、そのあいだも用水問題は大小さまざまなかたちで論じられたり、計画されたりしている。主なものを『信毎』紙上で拾い、この大意を記してみるとつぎのようである。
明治二十一年八月、「このごろ見聞するところによれば、瑪瑙河水を引きその水峯はすでに市中の一端にとどいたという。市民はこれを転用して清涼を得たりするとのことであるが、その水量はわずか四、五寸(約十数センチメートル)直径の管内に満ちるにすぎないもので田用水にも供するというから、たとえ全量を専用して市中にあてたとしても、その不足は明らかである。長野市中のためにはこれではまだ安心できない」としている。これによれば瑪瑙堰はまだ生きており、田用水と市民の涼みなどに利用されていた。
同二十一年八月、「野尻の芙蓉(ふよう)湖水については、従来これを長野市中にひくことを考え計画したこともあるが、実施にいたったものがないのは惜しまれる。瑪瑙河水と芙蓉湖水とを比較すれば芙蓉湖水は水量多く清潔にして透明なることは、夏期に販売する結氷を見ればわかる。当該有志者は鋭意これを長野市中にひくようにすべきである」として、野尻湖水の引水をすすめている。
明治二十四年五月、「長野町の引水事業、区会の決議は直ちに執行することとなり、これに加えて字箱清水、横沢あたりの有志もともに手伝い、旧堰筋に手入れ中なので、四、五日中には水の流通を見るであろう」としており、箱清水用水の利用希望範囲が長野町区会範囲のほか近在の有志にもひろがっている。
明治二十五年五月、「堂裏溜池(ためいけ)引水土管の入札、戸隠村より如来堂裏の溜池まで埋設する土管の入札を役場でおこない、三一五円七五銭五厘で当所の岩田浅平が落札」した。ここで用水工事に土管使用が登場してくるが、結果は不発におわった。
明治二十六年九月、「長野区会議員一同は、来る十七日消防溜池源水調べのため、戸隠まで赴くが、これは合清水の水権を得て戸隠よりくる水に合すれば水量も太くなるので、その水権を得るにはどうするか等を実地調査するため」であり、水源をさらに奥まで求める動きであるが、一ヵ月後戸隠村は「合清水は上野村落の飲用水とともに、他の諸村落の田用水であり、また製麻のためにも使用するので、長野の申し込みには応じがたい」と回答してきた。こうして合清水の水利権が得られなかったことにあわせて、このあと日清戦争による恤兵(じゅっぺい)献金活動や軍事公債への協力等もあり、長野町による引水計画は不発におわった。
明治二十八年九月、「裾花川の上流に赤痢患者の汚物を洗ったものがいるので、長野町役場では、上下両八幡川、鐘鋳川の沿線に対し、飲料水に使用しないこと、その他使い水にもなるべく使用しないがよい」と注意を加えた。八幡川・鐘鋳川は当時飲料水にも使用していたことがうかがえる。
明治二十九年五月、「長野市街の一大欠点は水の乏しきと水質の悪しきにある。今日の長野町民は何事をおいても水の心配をすることにあり、少しくらいの借金をしても引水の工事をするべきである。すみやかに永遠の策を講じなければ他日に悔いあるは必然なり」と、引水事業のおくれを指摘している。この時期はあたかも長野市制施行への動きが急激に高まる時期に合致する。