明治二十年代の各町村における戸数や人口については、統計の取り方が一定せず、判然としない点が多い。たとえば戸数については、「戸数」か「世帯数」か見分けのつかないものが多く、また、人口については「本籍人口」か「現住人口」かの見分けのつかないものも多い。同じ数値を使いながら、いっぽうでは「戸数」といい、いっぽうでは「世帯数」としているものもある。これは人口についても同様のことがいえる。さらにまた、「戸数」としながらじつは「世帯数」をあらわしているものもある。
長野町の明治二十年代の人口は『長野市史』によれば表39のようであるが、これも単に「人口」としているだけで「本籍人口」か「現住人口」かの区別はつかないが、後述するようにこれは「現住人口」によるものである。これによれば、二十年代はじめの人口は二万五〇〇〇人前後であり、二十年代おわりの人口は三万人前後となっている。この増加率はおよそ二〇パーセントであるが、戸数の変化はほとんどないといえる。
明治二十八年度(一八九五)長野町の人口構成は表40のようであり、総人口は三万四六五一人となっているが、実際は出寄留の計一七九七人を減じ、出生・死亡の差し引き二三二人を足した数、三万三〇八六人がこの年の「現住人口」である。それにしても長野町の総人口の四〇パーセント近くが入寄留によるものが占めており、また、入寄留と出寄留の割合は、入寄留が圧倒的に多い。また、長野町の出生と死亡については、六一〇人と三七八人との差二三二人の自然増である。これらはいずれも当時の長野町が市制施行を目前にして人口の集中が進んでおり、いわゆる都市型の特徴を示しているものといえる。
いっぽう、現長野市域の周辺部をみると、更府村では、二十一年の二一九七人から二十九年の二三八六人と六パーセントの増加で、戸数は二十一年の三八六戸から二十九年の三九〇戸へとわずかな増にすぎない。平坦部の青木島村では、二十一年の二〇八六人から二十九年の二三八七人へと一四パーセント余の増加をみせているが、戸数の変化はほとんどみられない。