小学校教育の推進と高等科設置

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明治十九年(一八八六)に公布された「小学校令」により、小学校は尋常科・高等科の二段階で、各四ヵ年の修業年限とされ、尋常小学科が義務制となった。また、地域によっては就学の便をはかるため、尋常小学科に代用する小学簡易科の設置も認められた。一学級の生徒数は尋常科八〇人、高等科六〇人以下とし、学校経費は授業料と寄付金を主とし、町村費から補足することができると定められていた。四月に始まり三月に年度が終わる学年制がとられるようになったのも、このときからである。これまでは、学務委員が学校管理や事務・授業料徴収・教員の勤務・児童の出欠を取り扱っていたが、これ以後は連合戸長が学校管理者となり、経営責任者として置かれる校長が取り扱うようになった。

 長野県は翌二十年施行の「小学区画校数表」を改定し、一学区内においては尋常小学校の本校が一校、ほかは支校とし、状況により派出所を設けることとした。第一番学区の長野町など五ヵ町村では、長野町に男子校の長野学校、南長野町に女子校の南長野学校を設置することとした。第三番学区一二ヵ村では、高田村の高田学校を本校とし、石渡支校と北長池校を設けている。第六番学区の富竹村など五ヵ村では、金箱村の金箱学校を本校とし、三才(さんさい)支校を設けている。現長野市域の更級郡は山間地を除くと、ほぼ一学区一校となっており、若穂地区でも同様に一学区一校となっている。

 翌二十一年長野県は「小学区画校数表」を再度改定し、尋常小学校は連合町村内一校・分教場一・派出所一とした。それにより、三輪村などの連合戸長役場管内では、本校が尋常小学校宇木学校と改称され、吉田学校が分教場、上松学校が派出所(二十一年廃止)となった。高等小学校は一郡一校制で全町村学校組合立として郡役所所在地に設置、郡長の管理下に置き、適宜分教場を設けることとなった。上水内高等小学校は長野尋常小学校(城山)に併置されて、分教場を黒川(牟礼村)に設けた。更級高等小学校は塩崎村に設置された。埴科高等小学校は屋代町に設けられ、松代分教場が置かれた。その後、更級郡では二十三年に下氷鉋(しもひがの)分教場が設置されている。


写真31 長野尋常高等小学校校舎 (明治33年「善光寺境内全図」より)

 明治二十二年四月、町村制が施行され、旧町村の分離・統合によって自治体としての新しい町村が誕生した。これを契機に一町村を一学区とした小学区画の改定がおこなわれ、現長野市域でも地理的条件のあるところを除くと、尋常小学校は、ほぼ一村一校へと整備されていった。

 翌二十三年公布の新「小学校令」は二十五年四月から施行されたが、これにより尋常小学校・高等小学校のほかに、両校を併置する尋常高等小学校が設けられた。学校の設置も町村または町村学校組合がおこない、経費を負担することとなった。

 新「小学校令」による尋常小学校および高等小学校の設立とその後の状況は、図9のようである。二十四、五年の時点で、組合立あるいは一ヵ村単独で設置され、高等小学校は、若穂地区では二十七年に、更級郡や上水内郡平坦部では三十年代のはじめの段階で、町村の単独による設置の方向へと動いている。これが各町村ごとに設置されるようになるのは、明治三十三年の改正「小学校令」を待たねばならなかった。


図9 高等小学校の設置と変遷 (『長野市教育会史』『上水内郡誌』『長野県教育史』などにより作成)

 明治二十年から実施している教育内容は、十九年の「小学校令」によって修身・読書・作文・習字・算術・唱歌・体操であり、高等小学科ではこのほか地理・歴史・理科・図画・裁縫・英語などもふくまれていた。配当表も各学年ごとに作られており、尋常小学科では読書・算術・習字、高等小学科では読書・算術の配当時数が多くなっている。時間割表も二時間目は読書、三時間目は算術、四時間目は習字というように、毎日がほぼ固定されていた。これらのうち、明治二十五年の新「小学校令」で、尋常小学校では唱歌がなくなり、高等小学校では外国地理が加わり週三〇時間の授業となった。しかし、松代尋常小学校のように二十六年度から、唱歌を各科目の時間外に、裁縫を習字の時間から三時間を割いて女子に教授するところもあった。

 学校行事では、遠足・修学旅行・運動会などが、師範学校につづいて明治二十年代に実施されるようになった。運動会は、校庭に集合した児童がいくつかの隊に分かれて決められた目的地に向かって行進し、目的地に着いてから休憩のあと、体操や競走などをした。これには一校でおこなわれる遠行運動会と近隣の学校が同一地点に集まっておこなう連合運動会があった。今里尋常小学校(川中島)では、初めての運動会が二十四年四月におこなわれた。全校三〇〇人余が九時すぎ五隊に分かれて出発し、小松原村社を経て段ノ原の光林寺まで三時間ほど歩いて出かけた。光林寺では遊戯をしたが、力があまっている十数人は裏山へかけ登った。饅頭(まんじゅう)を渡したあと、体操や旗奪(はたうば)いをしようとしたが、疲れていてできなかった。午後三時に整列し四時に帰校している。


写真32 下氷鉋尋常小学校の月別皆勤賞 (小林清吾所蔵)

 明治二十年四月、尋常師範学校長浅岡一が初めて実施した修学旅行は、しだいに県下の小学校へ広まった。上水内高等小学校四年生二四人は、二十四年十月二十一日午前七時に学校を出発して信州新町に二泊し、二十三日午後四時に長野にもどる二泊三日の修学旅行を実施した。コースは、学校-小市-両郡橋-茶臼山-虚空蔵山-久米路橋-新町(泊)-牧ノ島城跡-柳窪の湖-新町(泊)-(犀川沿いに)小市-長野で、全行程二四里(九四キロメートル)と記されている。引率した校長渡辺敏(はやし)は、「岡田川の河川砂防工事、川中島合戦にかかわる茶臼山の信玄の陣地跡や牧ノ島城跡、善光寺地震の虚空蔵山の崩壊跡などを訪ね、当時の様子を知るのにこの上ない見学であった」と『信濃教育会雑誌』に報告している。

 このように高等科高学年は、自然・歴史・社会などの学習を目的とする泊りがけの修学旅行、他は日帰りの遠足というように分けておこなわれるようになった。目的地も、はじめは固定されていたが、やがて学年によりあるいは年度により変わるようになった。遠足や修学旅行の定例化にともない、運動会は体操・遊戯・競技などの体育行事として慣例化されるようになった。しかし、多くの学校には運動場が整備されていなかったため、校庭運動会として校地内でおこなわれるようになるのは、後年のことである。

 教育の制度や施設をととのえながら就学をすすめたこの時期、長野県の就学率は、男子は全国的にみてもトップレベルであったが、女子は三〇パーセント台に低迷していた。上水内郡においても表41にみられるように、男子は県の平均を超え上位であったが、女子は、教育の必要性を認めない考えや、労働力としての必要性から、県下でも下位レベルにあった。そのため郡の重要課題として、とくに女子の就学促進のため、学務委員による就学の督励(とくれい)、就学猶予(ゆうよ)者の限定、生活困窮者の子弟への配慮、裁縫科等必要性の高い学科の設置、男女別授業などをおこなった。長野町では、姓名など数文字を書いて押印すれば届出が済むような、書式の簡略化をはかって就学率の向上につとめた。


表41 上水内郡ほかの就学率(抄) (明治23年)

 かな文字程度の読み書きができればよいとして、退学するものが多く、卒業にいたらないことが多かった。そのため、出席率を高めようとして皆勤生に賞をあたえたりした。大豆島(まめじま)尋常小学校では、筆(三ヵ月)・墨(一年)・石筆(六ヵ月)などの六つの文具を一定期間貸与し、模範的な使い方をしたものには返還させたのち賞としてあたえるなどして、父母の負担を軽減したり、こどもたちの意欲を高めようとした。

 「小学校令」にしたがって、県は明治二十年、公立学校職員の名称・待遇・職制などを定めた。これによって、校長・訓導の任免は戸長の申請によることとされ、月俸は校長五〇~二〇円、訓導は高等科四〇~五円、尋常科三〇~五円、簡易科一二~五円、授業生は各町村の試験に合格したものが免許状の申請ができるとされた。二十一年の上水内郡の教員数は、上水内高等小学校・長野尋常小学校の校長渡辺敏以下それぞれ八人、高田学校の五人が目立ち、他校は三人以下で、教員数が一人という学校も三分の一ほどみられた。俸給をみると、二〇円以上は数人程度で、一〇~一八円と、五~九・五円がほぼ同数存在した。

 明治二十五年の給料表改正で支給基準が明白になった。職制では、校長・首座訓導の職務、訓導・授業生の職務が定められたほか、二十六年には、「教育は政論の外に立つべき」として、教員・生徒の政務に関する討論や教育会の雑誌・新聞における時事論議を禁じ、二十七年には教員の選挙運動を制限するようになった。