御真影と教育勅語

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明治二十三年(一八九〇)の「小学校令」により、教育行政は文部大臣-知事-郡長-市町村長の縦の系統がととのえられて、学校の施設・設備・財政などは、設置する市町村の責任でおこなわれることになった。このような全国統一の教育制度のもとで、あらためて公立小学校の維持・管理がおこなわれた。

 県は明治二十五年、郡長のもとに郡内の教育事務を監督する郡視学(しがく)を設置するよう指示した。しかし、郡会では財政的負担などを理由に、設置案が埴科・更級など七郡で否決され、二十六年四月の時点で設置は上水内・上高井など八郡にとどまった。一六郡にすべて設置されるようになったのは、三十二年のことであった。郡視学は、学校の整備・学級編成と、教員の配置方法、児童の就学、学校資産の管理や収支、町村教育費の収支などの監督などを任務とし、年三回以上郡内を巡視し、郡長に報告書を提出した。また、郡視学は郡教育会の副会長をつとめ、郡内教員の人事権もにぎり、大きな力をもつようになった。やがて、設置された郡視学会議を通して、県の方針を郡内へ浸透・徹底させる仕組みができあがっていった。さらに、三十年には県に地方視学が設置され、文部省視学官-県視学-郡視学の監督系統ができあがっていった。

 これらの教育行政組織は、明治三十二年以降、県の指示により市町村が学務委員職務規程をつくることによって、いちおうの完成へと向かった。それによると、学務委員の任務は、学齢児童の調査、出席の督促、教育費の調査、学校視察などであった。

 明治二十年代には、これらの制度や教育内容がととのえられ、国家体制に沿う教育の確立が進められたが、その中核をなすのが、二十三年の「小学校令」と「教育に関する勅語(ちょくご)」「聖上・皇后両陛下御真影(ごしんえい)の下賜(かし)」であった。県下で最初に御真影が下賜されたのは、二十二年十二月、県立尋常師範学校(長野)と尋常中学校(松本)であった。つづいて高等小学校で、二十三年三月の更級高等小学校など七校をはじめとして、順次ゆきわたっていった。二十四年の長野大火で焼失した校舎を再建した長野高等小学校では、二十七年十一月一日に開校式をおこない、三日に下賜された御真影の奉迎式(ほうげいしき)をおこなった。学校の日誌によると、「午前八時に生徒一同が登校し、尋常科と高等科の四年生が奉迎のために県庁(現信大構内)へ向かい、他の生徒は大本願門前に整列した。八時四〇分県庁で御真影を奉戴(ほうたい)し、奉迎生の君が代斉唱のなか行列を組んで、九時に学校に到着した。この行列は、尋常小学校旗を間にして長野町の助役と収入役、つづいて尋常科生徒四列、つぎに郡長と町長、そのあとに警部と学務委員がつきそった御真影、さらに町会議員二列、高等小学校旗、高等科生徒四列、尋常科生徒四列という隊列であった」とあり、御真影の奉迎は、町村をあげての一大行事であった。

 明治二十三年十月、「教育に関する勅語」が発布され、教育の基本理念と国民実践の徳目が示された。その謄本(とうほん)と文部大臣訓示が、県下の官庁、公私立学校に配布された。各学校では、勅語奉戴式・奉読式をおこない、以後、学校儀式など折りあるごとに奉読され、修身教科書にも巻頭に掲載されて訓育の徹底がはかられた。これは御真影とともに神聖なものとされ、その取り扱いには「校内に奉置場を設け、もし守護に不安のある学校は、役場など取り締まりのゆきとどくところに奉安し、保管する」ことが指示された。やがて、御真影と教育勅語謄本の奉安が、学校管理上の重要な任務とされるようになった。

 これらの国の方針を実践する場として、明治二十四年「小学校祝日・大祭日儀式規程」が制定され、愛国心の育成・天皇への忠君意識の形成を目的に、祝日と国家神道の祭日に儀式をおこなうことになった。二十六年には、新年・紀元節・天長節(てんちょうせつ)の三大節が中心になったが、更級郡小学校長会では「小学校祝日・大祭日儀式打合わせ条項」を研究するなどして、しだいに学校儀式が定型化された。このような学校における儀式により、こどもをとおして地域にも天皇中心の国家観が広まっていった。

 明治二十八年一月、長沼尋常小学校赤沼分教場で、火災のため教室の棚に一時奉安してあった教育勅語謄本を焼失するできごとがあった。焼け残りをわずかに持ち出せただけだったため、訓導・村長代理の助役・郡長が連名で県に再下付を願いでた。これに対し県は、やむをえないことであると認め、郡に「余分に下賜されていて、返納すべき分から交付する」ように指示している。後年に他の学校で火災のさい、御真影と教育勅語謄本を奉護するため、殉職者を出したような雰囲気とは、相違点がみられる。