教育行財政と日清戦争

545 ~ 547

国家主義的風潮が強まるなかで、明治二十七年(一八九四)日清戦争が始まると、学校も尚武(しょうぶ)精神を高める動きに組みこまれるようになった。下氷鉋尋常小学校では、対清宣戦詔勅(せんせんしょうちょく)奉読式が、村長・議員・父兄ら数十人が参列しておこなわれたこと、児童から軍資献納金の申し出があったことや、戦況の幻灯会が開催されたことが記録されている。長野高等小学校では、まだ残っている徴兵忌避(ちょうへいきひ)の風潮を払拭(ふっしょく)しようとする県の意向もあって、許可を得て、入退営する兵の送迎に参加した。戦争が始まると出征兵士の送別が定例化し、職員・児童一同が兵士を長野停車場や善光寺仁王門跡広場(仁王門は二十四年の火災で焼失)で見送るようになった。東福寺尋常小学校(篠ノ井東小学校)では、戦没者に対し児童が弔辞を捧げている。

 これらのほか戦利品の展覧などもおこなわれ、学校はこどもたちの敵愾心(てきがいしん)を高めるとともに、こどもたちをとおして家庭・市民の目を日清戦争へ向け、士気を鼓舞(こぶ)する役割をになっていた。その効果もあってか、県下の軍事公債の応募額は目標を超え、軍資金・軍需金の献納や、食料品・衣類・日用雑貨品の献納も盛んにおこなわれるようになった。

 教育の内容では、戦争が始まった翌月、文部省は体育・衛生を重視する方針を示した。これを受けて県では、①手足や全身筋力の運動を活発にする運動を課すこと、②運動に便利な筒袖(つつそで)を用いること、③筆記・暗誦(あんしょう)などに過度の負担をかけないこと、④試験の点数による席順の上下や賞与を廃止すること、⑤登下校は歩かせること、など九項目の通達を出し、校長会を通じて実施を勧めている。

 日清戦争後の明治三十年(一八九七)、県知事は「国民の実力を養成するため、とくに家庭教育にもっとも力をいれるべきである」と訓示し、小学校課程のほかに補習科を設け、家庭教育を託することのできる女子の育成をはかろうとした。これにより、校長会では、裁縫科や子守(こもり)科の設置が論議されている。翌年には学校医の設置が定められ、保健衛生の徹底をはかり、生徒の身体検査統計表の作成、報告が求められるようになった。また、体操室の設置奨励、生徒用机・腰掛けの標準寸法の設定等が明治三十二年になされ、翌年には郡視学の学校視察による指導の徹底や、学校基本財産と森林思想啓蒙(けいもう)のための学校植樹などが推進されるようになった。いっぽう、教員数の不足が深刻となり、とくに女子の就学奨励のためもあって女子教員の確保は急務であったが、容易ではなかった。

 この時期の学校経費の収入は、寄付金の利子、授業料、町村からの補助が主であった。授業料は、土地の事情により甲・乙・丙に分けられ、表42のような違いがみられた。徴収方法は、毎月定められた日であったり、年間二または四期であったりし、米・薪炭(しんたん)などによる代納が認められる例もあった。明治二十三年の新「小学校令」では、授業料は「学校設立維持の基本財産」とは別に、「手数料」として扱われるようになり、二十六年になると「学校基本財産の収入または寄附金により、あるいは市町村の資力により徴収しなくてもよく」なり、二十九年には、日清戦争の戦死者の遺族は、状況により「免除」されることになった。


表42 尋常科の授業料

 いっぽう、支出は図10にみられるように、教職員の給与が経費内で圧倒的割合を占めるようになった。二十五年の県の規程では、標準給料額は訓導五級五〇~五円、準訓導二級二五~三円に分けられ、「年功加俸」として同一校に在勤五年ごとに、通常の給与の一〇分の一を支給するとか、慰労金や旅費の支給についても定められた。三十年には改定され、職種別・性別格差を新たに規定した。このような県や地元の負担に対して、二十九年には「年功加俸」について国庫補助金が出るようになり、三十年代には、学齢児童数・就学児童数を考慮した、教育費国庫補助金も出るようになった。また、町村制施行後の学校財産の所属については、二十七年に町村有または区有に名義変更されるようになった。


写真33 小学校授業料袋・明治25~29年
(樋口和吉所蔵)


図10 五十平尋常小学校経費 (『七二会村立小学校沿革誌』により作成)