信濃教育会上水内部会が設けられたのは、明治三十三年(一九〇〇)十一月である。
信濃教育会は地方に支会(のち部会)を設けることとし、明治二十年に三郡が設置したのをはじめ、上高井郡は二十三年、更級郡・埴科郡は二十六年に部会を設置した。信濃教育会事務局の所在地上水内郡は、本会に属してその運営の中核となってきたが、同三十年に長野市が発足したため長野市がその任にあたることとなり、上水内郡は地方となって同三十三年部会となったのである。この間、上水内郡内の活動には地区委員会があたり、二十八年の段階では北山中に北部教育会、平坦(へいたん)地に平坦地教育懇談会、平坦地東部教育会、裏山中に中部教育会、表山中に西部教育会があり、それぞれ「教育の普及改良」をはかっていた。
現長野市域の平坦部教育会に属した町村は、長野・安茂里・芹田・大豆島・古牧・三輪・浅川・吉田・朝陽・柳原であったが、のちに小田切が加入して一一ヵ町村になった。平坦部教育会の構成は校長・訓導等であり、教育と時事問題の研究協議をおこない、会場には長野学校が使用された。
明治三十年四月一日市制施行によって、長野市と上水内郡とは行政区画を異にし、教育会組織と運営も分割されることになった。上水内郡校長会は研究協議の結果、同三十三年七月、「信濃教育会上水内部会」の設置を可決した。いっぽう、同年六月九日、上水内郡在住の信濃教育会員も部会設置を決定し、両々相まって上水内部会が設置されることになった。同年十一月七日、上水内部会の設置が信濃教育会長に承認され、同月十一日、上水内郡役所で発会式があげられた。この日制定された「上水内部会規則」によれば、会は「郡内教育ノ普及改良及上進ヲ計ルヲ以テ目的トス」とある。これにより県下一六郡のすべてに支会が設けられることになった。会長には郡長の青山勝謙、副会長に郡視学の土屋政吉、理事には各地区の代表の小林初太郎以下五人が就任した。
発足当時の会員数は二五七人であったがその後漸増(ぜんぞう)し、同四十一年には三〇〇人を超えるようになった。会員数が増加したのは、有志的団体からしだいに職能団体化し、全員加入の傾向が強まったことによる。
信濃教育会創立以来、長野市域の信濃教育会員は本会直属の会員として、中核になって会活動を推進してきた。直属会員としての性格は、明治三十年四月の長野市制施行による郡部との行政上の分離後も、また三十三年十一月の上水内部会設立以後も変わることはなかった。信濃教育会の三十年代の役員構成をみると、会長・副会長をはじめとしてその過半数が長野市会員で占められている。雑誌編集委員はそのほとんどが長野市内の小学校および師範学校の教師であった。図書編さんや各種研究調査書なども、長野市会員が中心になっておこなわれた。
信濃教育会の本部のある長野市でも、明治三十年代の終わりごろから市教育会設立の動きが始まった。創立のための第一回準備会が市役所でもたれたのは、明治三十九年十二月十五日であった。出席者は市助役岩田勝義をはじめ学務委員の渡辺敏(長野高等女学校長)・村松民治郎(城山小学校長)・三村安治(後町小学校長)ら、総勢一二人であった。ここで設立のための準備日程が協議され、以後二回の準備会が開かれ、同四十年二月には会則草案が協議された。そして発起人総代鈴木小右衛門(長野市長)と渡辺敏の連名で、二四人の創立委員が嘱託(しょくたく)された。その委員は各区域の代表者で構成され、市教育会は全市民的な色合いが濃厚であった。
明治四十年五月十一日、長野市教育会は創立総会を城山館において開催した。式次第は、①奏楽(君が代)、②仮会長に市長鈴木小右衛門を選出、③会則の議決、④会長・副会長の選出、⑤奏楽、⑥校長村松民治郎・三村安治の談話、⑦盲生の点字実験、⑧唖(あ)生の発音および話し方実験、⑨楽奏、となっていた。会長に市長の鈴木小右衛門、副会長に渡辺敏が選出され、一五〇人の出席者があった。開会前に蓄音器を使っての演奏もあった。
創立総会で議決された会則には「長野市教育の普及改良及び発達をはかる」という会の目的が明記され、会員は通常会員・特別会員・名誉会員の三種とされた。発足時の会員申込数は二六八人であり、そのうち一四〇人が学校関係者であった。事業内容をみると、①教育上必要の事項を調査すること、②講習会を開設すること、③教育に関する演説・談話・討論会を開くこと、④一般講習のための通俗懇談会を開くこと、⑤通俗図書館および教育器陳列場の開設をはかること、⑥全国各市と連合して市としての教育事業を研究すること、などであった。会の経費は市の補助と会員の会費をあてることにした。
更級・埴科郡では、明治十九年八月、中島精一が更埴両郡長を兼任してから両郡教育会の統一に努力し、同二十年三月六日、更埴教育会が成立した。会長には郡長中島精一、副会長には郡学務書記有賀盈重が選ばれた。会員を甲乙二種に区分し、甲会員は毎月月俸の一〇〇分の一を出し、乙会員は相当の寄付金を出した。甲会員は更埴合わせて一〇六人(郡長一、郡書記六、戸長三〇、教員六九)で、乙会員は二一〇人(更級一二〇、埴科九〇)であった。会の事業としては、毎月常集会を開き、午前中は授業演習、午後は報告演説を例とした。報告演説の内容は郡外視察の報告であった。同二十五年十月、郡長の関口友愛(ゆうあい)が兼任を解かれ更級郡長に就任したころから、両郡が意思疎通を欠くようになり、同二十六年六月五日の総会において更埴教育会は解散した。その後、更級は同年九月三日、埴科は九月十三日にそれぞれ信濃教育会の部会としての発会式を挙げ発足した。特色ある事業としては、明治三十五年から始まる『埴科郡誌』の編さんと、更級高等小学校に仮設された図書館の運営などであった。
上高井郡においては、明治十八年二月に上高井郡私立教育会が創設され、山本汎愛(郡長)が会長となり規約を決めて発足した。同二十一年八月に上高井郡私立教育衛生勧業会と改称、同二十三年六月に信濃教育会上高井部会となった。二十年以後、毎年各種の講習会・講演会を開催し、会員の資質の向上につとめた。同三十八年には郡誌編さんに着手し、四十一年からは教材調査委員会をつくって教材研究を進めた。