長野町に初めて中学校が設けられたのは、上水内郡全町村学校組合立上水内中学校で、明治十六年(一八八三)六月長野町竪石(たていし)(長門町)の長野県師範学校校舎を仮用して開校した。これが「中学校令」改正で府県立一校制になって、長野県中学校(校長小林有也(うなり))が本校となり、上田・松本・下伊那の各中学校を支校として、師範学校は松本へ移転した。同十九年の諸学校令で尋常師範学校が松本から長野へ、尋常中学校が長野から松本へ移転して、長野町に中学校がなくなった。そして七年後の二十六年に中学校拡張政策がとられ、長野県尋常中学校長野支校が設けられた。これが三十二年独立して長野中学校となって、上田に支校(三十四年独立)を置き、本校は松本中学校と改称して、飯田支校(三十五年独立)を置き、三十五年には県立四校制となるのである。
明治十九年の一府県一中学校制で、長野・上田・飯田の各校が廃止され、各地の中学校志望者は通学上大きな打撃を受けた。各地から松本の長野県尋常中学校へは、交通事情などから寄宿生活をせざるをえなかった。このため入学志願者が減少し、入学しても表43のように通常費だけで五円二〇銭となり、臨時費をふくめると二七円六〇銭となって学資がかさみ、中途退学を余儀なくされるものも出てきた。いっぽう、東京神田近辺の私学へは、全国各地から殺到して、ときには五〇〇〇人を超えるほどであった。そこで文部大臣大木喬任(たかとう)は、二十四年十二月十二日勅令第二四三号で「中学校令」を改正し、一府県一中学校制を廃止し、各府県は文部大臣の許可を得て、数校設置できる方策をとった。
翌二十五年十二月長野県通常県会で、宮下一清議員をはじめ五人の議員は建議書を提出し、県立中学校の分校設置を要望した。建議書のなかで、長野県は地域が広いので、現在の中学校だけでは進学需要が満たせないとし、従来中学校があった長野・上田・飯田に分校を設置することとしている。そこで、委員七人をあげて調査することとなった。
調査の結果、分校は長野・上田・飯田の三ヵ所に置くこと、一校分の費用は初年度として三二〇六円五銭とし、四〇人を入学させ、三年目には一〇〇人とする見込みとした。また、三ヵ所を選んだ理由として、一府県一中学校制以前に中学校が建設されており、「中学校令」の改正がなければ現在まで持続していたはずであり、今回の中学校令の改正にともなって一校以上置くことが可能となれば、既設三ヵ所を復活させるのが適当であるとしている。これに対して反対論が出され、通学距離・校舎問題などが議論され、とくに上田分校への風当たりが強かったが、小差で原案が可決された。
明治二十五年十二月十六日、三支校の設置手続きを定め、浅田徳則長野県知事は、二十六年度に設置するためまず各支校の建物借用料が無料となるように手続きをとること、文部大臣の許可がおりたら生徒募集を管内に告示して職員を採用し、諸器械その他の備品購入の手続きをすること、などを担当者に指示した。
知事は翌二十六年二月二十二日、支校三ヵ所設置の件を文部大臣井上毅(こわし)へうかがった。その内容は、①位置は上水内郡長野町・小県郡上田町・下伊那郡飯田町の三ヵ所とする、②名称は長野県尋常中学校長野支校・同上田支校・同飯田支校とする、③修業年限は三ヵ年として四年次は本校に就学する、④生徒数は一支校およそ一二〇人とする、⑤費用は一支校およそ三二〇〇円とする、⑥入学退学規則・休日・授業料その他の諸則は本校諸則のとおりとする、⑦新たに採用する教員の履歴書は追って提出する、こととしている。
同二十六年三月九日に許可されたので、県は管内に同年四月より三支校を設置することを告示した。つづいて生徒募集も告示して、募集生徒数は松本本校およそ八〇人、支校およそ四〇人ずつとした。条件は、高等小学校卒業者であること、卒業試験のさいの教科目評点の五分の四以上で品行方正なもの、高等小学校二年卒業以上のものまたはこれに相当する学力のあるものとしている。
こうして、いよいよ県立中学校が開校のはこびとなった。長野支校では、上水内郡会一致で校舎建設費五〇〇〇円で郡有建物を建築し、これを無償で使用に供することを議決し、西長野に建設を始めた。当面、城山にあった皇典講究所の一部を仮用して、五月一日に授業を開始し、九月には、新築した校舎に移転した。
明治二十六年度は志願者五一人に対して三八人が入学しており、同三十一年度までの推移をみると表44のように年々増加している。しかし、競争率も年とともに高くなり、狭き門となった。また、三十二年の郡別生徒数をみると、上水内郡の五九人(二五・六パーセント)をはじめ、市制を施行したばかりの長野市で四八人(二〇・八パーセント)、更級郡で三一人(一三・四パーセント)で、近隣の町村からの生徒が集まり、他府県からも二〇人(八・六パーセント)入学している。
中学校の学科課程は、二十九年には倫理・国語および漢文・英語・地理・歴史・数学・博物・物理・化学・習字・図画・体操・農業・商業で、一、二年生は週二八時間、三~五年生は週二九時間であった。学業成績や経済的事情、病気などによっての中途退学者も多く、二十九年の長野支校では一四一人の生徒中、中途退学者は二二人(一五・六パーセント)、三十年には一八六人中三九人(二〇・九パーセント)となっている。教員数は、二十六年には七人で、教員免許をもっていたのは倫理・博物の川面松衛(教諭)と、漢文・歴史の寺田鎮平(助教諭)の二人だけであった。ほかの五人は助教諭心得が三人、助手が二人であった。助教諭心得三人のうち二人は、書記を兼務していた。川面松衛の給与は三五円で、支校の首席川面教諭が実質上運営の責任者であった。