明治二十年代の長野町の中等教育は、明治二十六年(一八九三)に設けられた長野県中学校長野支校だけであったが、同二十九年にはじめて町立長野高等女学校が設置された。女子中等教育は全国的に遅れていて、文部省は明治十五年から女学校設置の方針をたて、二十八年に「高等女学校規程」を定め、三十二年にこれを「高等女学校令」にあらためた。そのあいだに長野町は、市制施行前年の二十九年四月に、全国第一四番目の高等女学校を県下で最初に発足させた。
県下には明治二十二年に高等女学校設置の意見が、長野県尋常師範学校を卒業して東京高等師範学校へ入学したばかりの矢沢米三郎(明治三十八年松本女子師範初代校長)と同期の川面松衛(大正十二年京都師範校長)らによって提唱されて、県下に女学校論が起こった。提唱者は、母性の教養の重要性を説いたのであったが、これに対して「田舎貴族的」な風潮や「女壮士(おんなそうし)・女丈夫(じょじょうふ)の養成所」になりはしないかという警戒論が出された。一般に「良妻賢母」の女性像が望まれていたが、女性の教養についてはまだ学問不要の考え方が強く残っていた。このとき一歩踏み出して、長野町に女学校を実現するよう中村町長に説いたのは、長野尋常小学校長兼上水内高等小学校長(城山)渡辺敏(はやし)であった。高等科や補習科へ進学する女生徒の増加する趨勢(すうせい)をみて、高等女学校の設立が可能であることを確信し、母性の将来を思う渡辺の熱意に、中村町長は同感し、町会の理事会の反対にもかかわらず、これを説得して設立の計画と予算が町会に提出された。
明治二十八年十二月二十八日の新聞記事によれば、高等女学校創立の経費は一三四六円二三銭、生徒は二五五人の予定、高等科女子は三年(一二歳)から高等女学校に移し、当分校舎は新築の必要がない、と報じている(『信毎』)。さらに翌二十九年一月一日付けの同紙は、「二十八年には日清戦争の影響で一般父母がいっそう教育の重んずべきことを感じたものか、高等科一、二年で半途退学するものが減少し、女子生徒にも今一歩進んだ教育を望む父母が増加するに相違ない、今年の高等科卒業の女生徒は城山一五人、長野師範付属小学校一五人、裁縫専修科三八人で、合計すれば六八人になり、半数とみても三〇人の高等女学校入学者が見こまれる。時期が熟しており、高等科は二年として、それ以上のものはすべて新設の高等女学校に入れ、四年をもって完全な教育を授けるのがよい」、としている。
町長は二十九年三月十七日、県知事あてに設立伺いを提出して許可され、文部省の認可が同月二十七日に県から通知された。開校式は四月十日、長野高等小学校でおこなわれた。『信毎』によると「長野学校楼上の広間にて長野高等女学校開校式がおこなわれた。正面に聖影を安置し、右方には知事・代議士・郡長・県参事会員・議会議員・郡参事会員・県属・隣村長、左方には師範学校・中学校・付属学校・隣村校長等の職員が居並び、中央に生徒を列席させた。午後一時半、渡辺校長うやうやしく進んで聖影を奉拝し、君が代の奏楽に続いて勅語の奉読あり。中村町長開校の顛末(てんまつ)を報告し、高崎知事の祝辞・森田上水内郡長の祝辞・金井県参事会員の演説・上水内東部八ヵ村組合高等小学校長宮入源之助・安茂里村長加藤園七・町会議員総代等祝辞あり」とあり、渡辺校長ならびに生徒総代の答辞で式を終わった。
長野高等女学校には、高等普通科と技芸専修科の課程を置き、校長は渡辺敏が小学校長と兼任、専任の助教諭(女)を各課程三人、高等普通科は林しゆう・鳥羽まつえ・野村きよが各一学級を担任、技芸専修科は上村山代担任で、ほかに五人の助手を置き、小学校の訓導が普通学科を兼担した。入学した生徒は普通科一〇八人(一年四七人、二年三〇人、三年三一人で定員超八人)、技芸科一一五人(定員不足三五人)であった。
当初は長野高等小学校の校舎の一部を借用し、使用教室は正面本館二階と南校舎二階の四教室であった。正面本館の一階の一部に女学校職員室、二階を技芸専修科の教室として、南校舎の四教室を高等普通科の教室とした。また、「設立伺」に添付された女学校規則によると、二つの課程の学科や授業料・休業日や入退学の手続き・試験などを定めている。それによると、女子に必要な高等普通教育を施し、淑女良妻の養成を目的とし、高等普通科の学科は修身・国語・歴史・地理・数学・理科・家事・裁縫・習字・図画・音楽・体操の一二科目で週三〇時間、技芸専修科も週三〇時間で、学科は修身・国語・家事・裁縫の四科目として、裁縫が全時間の三分の二を占めている。授業料は専修科が月三〇銭、普通科は一・二年五〇銭、三・四年七〇銭であった。休業日は三〇日間で、高等小学校の二倍となっている。試験は、学年末の一回と臨時試験として三回以上おこなうこととしている。校舎の共用で、体育や音楽など特別教室や体操場の使用は、長野小学校と調整し、行事は、長野高等小学校の計画へ同調した形でおこなわれることが多かった。二十九年十月二十日には高等小学校の女生徒と合同で、更級郡小松原へ遠足運動を実施し、翌三十年十月十二日には合同で平出山へ遠足運動をおこなっている。
明治三十年には長野市が発足して、校名が長野市立長野高等女学校となり、翌三十一年に補習科を設置、三十二年には生徒に袴(はかま)を着用させた。当時一般に児童生徒の服装は、着物と前掛けであったから、海老茶(えびちゃ)の袴は華族女学校の真似で女生徒を高慢にするといって、訓育上反対意見が多かった。しかし、渡辺敏は、国民体位の向上をはかるには母体の育成が重要であるとして、イギリスの女子の活発な運動を例にひいて、女子の運動競技を盛んにするため、乗馬型の袴を採用したのであった。そして、三十五年には、長野市箱清水の地(現長野西高等学校)に校舎を新築し、三十七年には寄宿舎も完成して、石井ひで(丸岡秀子)ら七二人が入寮している。
明治三十二年「高等女学校令」が施行されて、府県立校または県立代用校が義務づけられた。長野県は市立長野高等女学校を翌三十三年四月県立代用校とし、つづいて五月東筑摩・小県・下伊那郡長に県立代用校の設置を勧奨し、同年八月松本(町立)に、十月上田(郡立)、三十四年三月下伊那(郡立)に設置が認可されて順次開校した。長野高等女学校は、創立時町市費独力で経営したが、県立代用となって県費補助金が交付され、県下の高等女学校四校は、四十二年県立に移管された。
高等女学校を創設した渡辺敏は、初等教育だけでなく、女子教育・実業教育の諸学校を長野市内に設置して、県都に近代教育の体制をととのえた、長野市教育の大きな功績者であった。