善光寺は明治十五年(一八八二)四月十日から五〇日間御開帳をおこなった。江戸時代には出開帳(出張)がおこなわれたので、地元で開催する開帳は御回向(ごえこう)と呼ばれていた。明治維新後は明治五年(申(さる))、十年(丑(うし))、十五年(午(うま))と五年ごとに御回向がおこなわれたが、十五年のつぎの開帳は明治二十一年の子(ね)年におこなわれ、これ以後現在まで午年と子年に開催することになった。
長野停車場(長野駅)は明治二十一年五月に開業していた。この駅の開業で末広町が開かれ、千歳町通り(三線路)は二十三年に開通した。中央通りは旧善光寺街道であったから、最初から整備されていたが、長野停車場から中央通りへの連絡道路がつくられ、末広町通り(一線路)と停車場から斜めに中央通りに接続する二線路が開かれた。
明治二十四年には五月と六月に長野町に大火があり、六月の火事で善光寺の仁王門と大本願と院坊の大部分が焼失した。仁王門は明治維新の直前の元治(げんじ)元年(一八六四)に再建したばかりであった。仁王門の早急な再建はできないので、仮の門がつくられ急場をしのぐ算段がとられた。
院坊はすぐさま再建に取りかかったが、それぞれの院や坊は各自の持ち郡(院や坊は全国を郡別に区分し、自坊の担当区域を決めていた)に呼びかけ募金を開始した。信徒らの努力で復興が進み、大勧進は明治二十七年に本堂(万善堂)を再建した。大本願の本誓殿の再建は三十三年にずれこんだが、ほぼ復興が進んだ中途で、二十七年の御回向がおこなわれた。
この午(うま)年の御開帳(御回向)は、信越線が碓氷峠(うすいとうげ)のトンネルの完成で高崎まで全通していたので大繁盛であった。その大景況の理由としては、官営鉄道の信越線と高崎・上野間の私鉄の日本鉄道がともに割引切符を発行したこと、陽気(天候)が良かったこと、長野町民の準備が良かったことなどがあげられている。この御開帳は出だしがよく、お客は山のように来るは来るはの状況で、対旭館・五明館・東洋館などの宿屋に毎日平均一七〇〇人、二一の院に一〇〇〇人、一四の坊に六四〇人の宿泊者があり、町内の親戚(しんせき)筋に泊まるものを合算すると、一日平均五〇〇〇人以上の泊まり客があったという。したがって、貸し布団屋は大繁盛で、そば屋は大混雑、見せ物小屋の城山近辺は午前六時から午後二時ごろまで大にぎわいであったと、新聞は報じている。
見せ物興行は、生き人形(生きた人間に似せてつくった等身大の人形)による「日清戦争」をはじめ、西洋軽業(かるわざ)、女曲馬、生きた虎(とら)と人間の格闘など、どれも大盛会であった。長野駅の乗降客の二十七年の数値をみると、前後の年より一七万人も多いので、ご開帳期間中の参詣人の人出は三〇万人を超えたといわれている。
善光寺参拝客は江戸時代から講組織で参詣に来ていた。これは現在でも変わらないが、鉄道ができてからは旅行会社が募集して世話をするという形が、明治の末年に生まれた。講の団体は持ち郡となっている院や坊に宿泊し、お朝事(あさじ)などの善光寺の仏事に参加した。