キリスト教と長野

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明治十二年(一八七九)十月十七日の『七一雑報』には、「長野町の飯島静謙という東京銀座教会の信徒が、長野の伝道を松代美以(みい)教会や上田基督(きりすと)一致教会に依頼して伝道活動を始めると、善光寺のもとの寺侍から仏敵として責められた」という記事がある。明治十九年二月の『基督教新聞』は、長野町に耶蘇(やそ)教遊撃隊(ゆうげきたい)があり、この遊撃隊がキリスト教集会に家を貸した人や会場を斡旋(あっせん)した人に迫害を加えていると伝えている。しかし、迫害に抵抗した人もあり、同十九年一月には善光寺地内の島屋という旅館で、キリスト教説教会の看板を掲げて説教会が開かれ、二〇人ほどの人が集まり、隣の部屋で十七、八人がひそかに聞いていたと報じている。また、同『基督教新聞』の記事のなかに県の役人の犬飼新(上田基督一致教会信徒)が官舎を集会に提供したことがみえる。

 県庁や裁判所等の役人のなかにキリスト教信徒があり、長門町六一〇番地に説教所が開設された。この説教所は日本基督一致教会(のちの日本基督教会)の系統で、今日の日本基督教団長野教会の萌芽(ほうが)であった。長野師範学校の英語教諭の浅川広湖(もと日本メソジスト教会甲府教会牧師)は、師範の生徒たちのために英語の聖書研究会(バイブルクラス)を自宅で開いていた。聖書を学ぶ人もあらわれてきたので、浅川は日本基督一致教会の石原量と相談して、一致教会が毎月二回師範学校の生徒に伝道する段取りを講じ、明治二十三年四月から明治学院神学科を卒業した津久井新三郎が赴任し、長野に日本基督教会長野教会(二十三年から名称変更)が成立をみた。

 同じく二十三年に長野地方裁判所の判事として千葉直枝が赴任してきた。千葉は前任地の静岡で、日本メソジスト教会の洗礼を受けていた。信越線が軽井沢から直江津まで開通したこともあり、日本メソジスト教会は長野地方を伝道地とし、宣教師ジョン・ガスキン・ダンロップを伝道地主任として送り込んだ。同年九月に長野町に赴任したカナダ人ダンロップは、裁判所のあった花咲町に住み、自宅や千葉直枝の官舎で集会を始めた。日本基督教会に託した浅川広湖のバイブルクラスの生徒は、津久井新三郎の教会に行かずにダンロップのもとに集まってきた。このなかには保科百助(ひゃくすけ)(五無斎(ごむさい))もいたという。

 千葉は東北二本松藩の出身で、彼のまわりには一族や旧藩出身者が多数いた。この人たちが千葉とその妻綾子のすすめで、キリスト教の集会に出席した。明治二十四年十月の濃尾大地震の被災者の救済のために、長野町の教会が協力して救済音楽会を同年十一月に開催した。五人の講演者のなかにはダンロップを助けた伝道師布施謙次郎、長野教会牧師津久井新三郎、千葉直枝と同郷の長野学校校長渡辺敏がいた。

 十二月五日には千葉裁判官の妹、甥(おい)、裁判所雇員の弟ら六人の青少年が洗礼を受けた。洗礼式はのちの日本メソジスト教会監督の平岩愃保(よしやす)が執行した。十二月七日に教会は廃娼演説会を城山館でおこない、当時の有名人平岩愃保、木下尚江(なおえ)(松本美以教会信徒)が演説した。

 裁判所関係者や学生・生徒にだけではなく、長野町民一般に伝道するため、集会所は花咲町から問屋街の東町に移された。しかし、町の中心部で伝道するという計画が立てられ、明治二十五年十一月に土蔵造りの教会堂が県(あがた)町二二番戸に完成し、十二月三日に献堂式がおこなわれ、四日(日)に四人の成人が洗礼を受け、信徒が二〇人を超えたので正式に日本メソジスト教会長野教会が成立した。これが現在の日本基督教団長野県町(あがたまち)教会である。献堂記念の伝道会が十二月六日と七日に城山館で開催された。


写真41 明治25年献堂の長野県町教会の最初の教会堂 (「県町教会百年史」より)

 日本聖公会は二十五年からウォーラー宣教師が長野町で伝道を開始した。ウォーラーは二十三年から福島県で伝道していたが、東北と関東はアメリカの聖公会の伝道地域とされ、カナダ聖公会は信越・愛知・岐阜を受け持つことになり、ウォーラーは長野町に移ってきた。明治二十七年に神戸からミス・ジェニー・スミスが看護婦二人、同見習二人、伝道師二人とともに長野町に移り、慈恵医館という看護婦養成学校をはじめ、ウォーラーの伝道を助けた。この学校はスミスが健康をそこねて帰国したのを契機に、東京の聖路加(せいろか)病院に移され、聖路加の看護学校となった。

 日本メソジスト長野教会に明治二十六年七月、橋本睦之が牧師として赴任してきた。東京の浅草で開かれた橋本の送別会には、国会議員江原素六・山路愛山・村松一(もと静岡学問所幹事)・平岩愃保らが出席している。広い人脈をもつ人物で中村正直の同人社の出身であった。

 橋本は明治二十六年十一月三日に、上田の教会の増野伝四郎牧師を迎えて、天長節祝賀会を教会堂で開催した。天長節祝賀会は以後橋本の在任中は継続されている。日清戦争が勝利し広島にあった大本営が東京に帰った日、橋本は天皇の東京帰還を祝う祝賀式を教会堂でおこなっている。