『信毎』は、明治二十一年(一八八八)に廃娼(はいしょう)論と存娼(ぞんしょう)論を掲載し、紙上で討論を展開した。翌二十二年の長野県通常県会に、廃娼建議案が提出されたが否決された。すぐさま『信毎』に鈴木健蔵名の投書が載った。投稿者は県会に廃娼建議案が出されたことに触発され、貸し座敷全廃に賛成し、文明開化のため、道徳維持のためには廃娼は不可欠であると主張している。このように人権や人格の問題が公に討論されることになった。
明治二十三年には東京帝国大学教授外山正一の廃娼論が、『信毎』に三月から四月にかけて八回連載され、この廃娼論は、筆者を替えてさらにつづけられた。この時点で、ようやく娼妓の人格が論じられ、楼主の搾取(さくしゅ)が鋭く批判された。このころから矯風(きょうふう)運動・禁酒運動が広がってきた。
遊郭(ゆうかく)は長野町や松本町のほか、平穏(ひらお)(山ノ内町)などの温泉場にもあったが、大町遊郭の設置が取りざたされ、松代町にも遊郭設置の動きが始まると、長野町の青年有志や松代青年会、キリスト教徒、禁酒会員が連合して活動し、廃娼演説会を開いた。
同二十四年十月には濃尾大地震が起こり、罹災(りさい)者・被害者の救済の運動が世界的に起こった。同年十一月十四日には「愛知、岐阜、罹災民救恤(きゅうじゅつ)慈善音楽会」が城山館で開催され、木下尚江、渡辺敏、布施謙次郎、津久井新三郎、佐久間舜一郎が講演し、山田東山らの琴、尺八、胡弓(こきゅう)、三味線の合奏、宣教師ダンロップやメリケンらのオルガン演奏、英語唱歌等々、当夜は午後十一時十分に終了したと、『信毎』は伝えている。同夜の出席者名も掲載されているが、県知事一家、裁判所長一家をはじめ、長野町の有名人が大ぜい出席していた。
明治二十四年十二月七日に城山館で「廃娼演説会」が教会、キリスト教青年会、長野禁酒会の共催で開催され、木下尚江、佐久間舜一郎、平岩愃保が講演した。平岩愃保は文部省の高級官僚から牧師に転身した当時の著名人で、演題は「不潔奴隷(どれい)の解放」であり、娼妓や妓楼は帝国憲法にそむくことであり、遊郭や娼妓はとうてい公には許される理由がないことを論じている。
明治二十七年一月、上水内郡長野唱歌会が誕生した。高尚なる音楽の普及をはかり、世間に流行している低俗な歌曲を改めるという、いわば矯風的な目的をかかげる団体であり、音楽を研究するだけではなく、ときどき演奏会を実施することが規則に決められていた。普通科と研究科があり、学科目は唱歌・風琴(ふうきん)・バイオリン・ピアノ・楽理教授法で、修業年限は一年であった。合唱団ではなく、音楽専門学校のようなものであった。講師で会長は長野尋常師範学校の音楽教師依田弁之助であったが、信濃教育会の事業ではなく、事務所を長野町内に置く民間団体であった。同じく唱歌会と称した上高井唱歌会が音楽教員の研修会であったのとは内容が異なっている。