明治十九年(一八八六)に『松代青年会雑誌』の創刊号が発刊された。この号は規則とか設立までの沿革等であるが、翌二十年三月に第一号、六月に第二号を出している。季刊のペースで以後長く発刊された。青年たちの紀行文や会員の研究にかかわるかなり高度なものもある。第二号には「会員小山田君ノ問ニ応ジテ植物呼吸ノコトヲ論ズ」という論説がある。また、第二号には「遊戯改良集説(ベース・ボール)」というアメリカ合衆国の野球の本の翻訳が載っている。訳者は会員の丸山熊男であるが、グラウンドの大きさ、ダイヤモンドの説明が図入りで書かれている。「九回ニシテ一戯ヲ終ル」とか「カッチャーハ各組九人ノ組頭トモ云(い)フ可(べ)キモノニシテ」などという説明が見られる。この雑誌は販売されずに、会員内部誌であったが、啓発的な役割を果たした。
文苑に近衛忠煕(ただひろ)や東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)の歌がのっている『興風雑誌』が明治二十年代に出ている。これは全県的な雑誌であるが、文苑欄には長野町の人の作品もある。断片的にしか残っていないので、どこからだれによって発行されたのかは不明であるが、「録事」欄に長野県神職総取締所達が載っているので、神道関係者の出版物と考えられる。
明治二十八年十月に、長野町城山の長野県皇典講究所内興風館から『皇風』という雑誌が発刊された。『興風雑誌』のあとを継いだ雑誌と思える。第一号と第二号の社説は「国体」である。第一号には高野辰之(たつゆき)の短歌も一般投書者に混じって掲載されている。第二号には若槻村の宮沢元吉、田中つる子、桑原村の関直人、小田切村の宮坂信千代らの名前が会員欄に見える。論説は神祇官設置、敬神の本意、皇国音楽の沿革の大意などであるが、会員は主として短歌の投稿欄に関係があり、一種の短歌雑誌の観を呈している。
須坂町から発刊されていた『月並発句集』にも、柳原村・大室村・長沼村の人の俳句が載っている。このように文芸はかなり庶民レベルまで広がっていた。同好者だけが集まって歌会や句会をするのでなく、短歌や俳句の投稿雑誌があらわれてきたのである。