上田町の日本基督一致教会信徒の小島ひろは、各教会の婦人を糾合(きゅうごう)して、明治二十一年(一八八八)三月「基督(きりすと)教北信婦人親睦会」を結成した。翌二十二年四月十六日の同会第一回総会には、松代美以(みい)教会からは熊井はなほか四人が出席した。二十五年には松代美以教会で総会が開催され、長野・上田・坂城の諸教会から五二人が集まっている。同日は演説や信仰談のほかに、ダンロップ宣教師がオルガンの独奏をした。
翌二十六年の総会は上田で開かれたが、松代からは八人が出席している。この教会婦人会はキリスト教の教派を超えた会合であった。二十七年の南佐久郡臼田(南佐久講義所)での総会のあと、同会は三十一年四月まで休会した。もともと県会での廃娼建議案可決に向かっての教会婦人の意識統一の目的があり、日清戦争の開戦で運動の頓挫(とんざ)とともに休会してしまったのである。復活してからは、昭和十四年(一九三九)まで活動し、昭和四年からの廃娼運動に再び参加している。
長野聖公会に明治二十八年十一月、婦人会が設置された。日清戦争の傷病者の介護に奉仕したカナダ人女性ミス・スミスが神戸から看護婦二人、見習看護婦二人、婦人伝道師二人を引き連れて長野に移ってきた。病院を建て、看護婦を養成する目的であったが、長野にはまだ病院の施設がなかったので、病院ができるまで伝道に従事するため、スミス女史を支援する婦人会が結成されたのである。会員は伝道に協力するとともに会費を納入し、慈善事業に当てることが規約で定められている。
明治二十一年に仏教系の『婦人教会雑誌』と『婦人教育雑誌』が刊行され、この雑誌の購読者を組織し、内容を解説する団体が、真宗婦人教会という名称で組織された。同年四月には上水内郡柳原村に、上水内郡柳原婦人教会が設立された。同教会の指導者は徳善寺住職古海成溝であり、雑誌の解説と法話が主たる活動であった。同年十月には長野婦人教会が設立された。この会の活動も、柳原婦人教会と同一であった。翌二十二年四月には更級郡川中島村に川中島婦人教会が誕生している。