市制施行への動きと市制の施行

576 ~ 580

明治三十年(一八九七)四月一日、長野町は県下で最初の市制を施行し長野市が誕生した。全国からみると長野市は宇都宮に次ぐ四三番目、中部地方では名古屋に次ぐ一〇番目の市である。長野町は善光寺門前町から県庁所在地となり、さらに信越線の開通などにより早くから発展していたが、市制施行への動きは、東筑摩郡松本町が明治二十三年ころから始まるのに比べ後れていた。

 長野町では、明治二十五年三月末、樋口兼利初代町長の死亡により、翌月中村兵左衛門が二代町長に就任したが、このときから市制施行への動きが始まり、そして同町長が市制を実現させた。


写真1 郷里信濃町が建てた中村兵左衛門の頌徳碑
(上水内郡信濃町)

 二十五年四月、ときあたかも群馬県前橋の市制施行により、隣接県の県庁所在地すべてが市制施行を実現したことになった。これに刺激されて町会議員のなかには、市制施行をとなえるものも出た。また『信濃毎日新聞』(以下『信毎』と略称)紙上でも「町村制実施の当時には、市制実施は如何などの説あるも、耳を傾けるものさえなかりし長野町民も、近来追々市制の実施を望むものの如く、今では殆(ほと)んど与論とも云うべき程に至り」としたり、「我が長野町民が山間の小仏都に甘んぜず、進んで市制をしき、よく東北の覇権を握らんとするに至りたる勇気を賀す、自今その希望を達せんことに努むと同時に実力養成に全脳を注げ」と論ずるものもいた。このころ長野町は、市制施行の基準である人口二万五〇〇〇人をすでに超えていることもあった。しかし、このあと二、三年間はそれ以上の動きはなく低調であった。わずかに二十七年四月六日同新聞の雑報欄で「長野市街の事につき」と題し、明治浪人の名で「市街地としては立派なり、戸数もあり人口もあり、何故に市制を施行し自治の完全を期せざるや、市制施行のやぶさかなる其の原由如何」という投書がみられたり、二十八年四月十四日同紙同欄「松本の市制実施出願に就いて」と題して、大略「ほのかに聞く、人口、戸数等のみにては容易に許可せず、その他の資格もよく調査し、また自治経済の如何をもよく探索の上許可を決する例なれば、むつかしき方七分ならん」と報じている程度である。


表1 明治30年までの市制施行都市と施行年月日

 長野町の市制施行への本格的な動きは、二十九年に入ってにわかに始まる。同年二月十一日の町会で水品平右衛門が「長野町の実力はすでに市制を施行するに適当ではないか、委員をあげて調査し、実施時期到来とみとめたら出願する」ことを提案、中村町長も希望意見を述べ、大多数の賛成で可決、翌十二日調査委員として、宮下太七郎・荻原政太・市川藤吉・水品平右衛門・荒井利右衛門・永井喜右衛門・藤井平五郎の七人が選ばれた。二月二十五日『信毎』紙上に長野町一公民の名で、長野町長および町会に望むとして、「市制実施準備をいつまでものばしているような委員にまかせているが、委員は実施の得失や産業上に及ぼす影響等はたして定見があるのか、実施時期尚早の理由があるのか」という投書が寄せられ、市制実施準備を急ぐことをうながしている。つづいて三月十二日の紙上では、町内の織物商組合が、「市制実施の可否を議し、全会一致を以て実施を可とすることに決した」ので、会頭藤井名左衛門から町長へ意見書を出すことになり、役場へ出向いて差しだし、かつ意見を陳述したことを報じている。そして、四月には近県の宇都宮が市制を施行する。これもまた、長野町の市制施行へ拍車をかけることになった。

 このような県内外の動きを受けて十月下旬の町会では、「調査委員による実施調査は他のすでに市制を施行している都市との比較検討で時日を要したが、およそ調査がすんだので来月三日の若松町開道式が終わりしだい報告する」と発表した。そして十一月二十二日の町会で予定どおり調査委員から、「実施を適当とする意見」を添えて報告があり、会議は全会一致で是認、市制実施願書を提出することに決まった。つづいて実施期成委員として、前島元助・藤井平五郎・矢島浦太郎・永井喜右衛門・水品平右衛門の五人が選ばれた。委員五人は翌二十三日からさっそく願書起草材料の収集などを協議し、起草にとりかかった。できた案は十二月八日の町会で審議し、可決された。こうして、市制実施申請書は十二月二十三日郡役所をへて県庁へ提出された。

 この動きに合わせ『信毎』は市制の早期実現を意図した社説欄で、十二月二十三日から二十六日まで四日間にわたり「長野町と市制実施」と題し、「①長野町の人口は、八月一日付け官報により三万二八六六人、これは全国町村中最大であり、市制実行地の前橋市以下一四市より上である。②戸数は六〇三〇戸、市制実行地の水戸市以下三市より上である。③有形財産上の実力は、地価・所得・税額等市制実行地の岐阜以下四市よりまさる。④市の財政は二十九年度歳出予算額で、市制実行地の津市以下四市の上である。⑤諸事務については一々郡衙(ぐんが)の支配を受け、また諸願い届けの類につき郡衙の手を経るが如き何の必要もなく、これがため受くる不便出費は少なからざるものあり。⑥町民の意向は、市となすの利益あるを認め過般来書を町会にいたし市制の実施をうながすもの一にして足らず、未(いま)だ一人としてこれに反対するもの有るを聞かず。即ち市制実施は長野町民全体の意望なり」と論じ、結論として、「⑦もはや猶予(ゆうよ)すべき場合にあらず、長野町会が市制実施の決議をなし、内務大臣に稟請(りんせい)せる一事は吾人(ごじん)も同意をなすところなれば、県当局者も速やかに本願の成就(じようじゆ)することに力を添えられんことを希望する」と結んでいる。

 このあと申請書は県から国へ送られたが、翌三十年二月実施期成委員の前島元助・永井喜右衛門・水品平右衛門の三人が上京し、地元代議士小坂善之助の紹介により、十七日松方首相の官邸を訪れ市制実施を陳情した。これに対し首相は「充分聞きおく」旨を告げた。こうして長野町の市制施行は、町会発議からわずか一年余りののち、明治三十年三月八日付け内務省告示第二一号により「明治二十三年法律第三十六号郡制第二条ニ依リ明治三十年四月一日ヨリ長野県上水内郡長野町ヲ市ト為(な)ス」と認可された。この市制施行については、県下で最初のことでもあり、県庁では書記官が上京し内務省と打ち合わせをしたり、長野町でも県職員とともに原山太吉助役を宇都宮へ実地視察に派遣するなどの動きもみられた。

 市制施行を祝う長野市民の盛り上がりは大変なものであった。同三十年四月二日の『信毎』は、長野市制実施の祝典と題し「予期の如く昨日挙行、今其模様を記さんに左の如し」として、それぞれに工夫をこらした市内二十数ヵ町の出し物やようすについて報じている。

 これから数年後、市制の施行にあわせ「乙女のひくや裾花の」で始まる「長野市の歌」もつくられ、大正十年代(近隣町村合併)まで小学生や市民に愛唱された。