三級制の市会議員選挙と市会

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長野市に市制が施行されたことにより、それまでの長野町町会は解散し、あらたに市制にもとづく市会議員の選挙を実施して長野市会を構成することになった。市会議員選挙にかかわる市制の要点をあげればつぎの六点である。①選挙人の資格は、市の住民で直接国税二円以上を納めるもの。②選挙人を一級・二級・三級に分け、長野市の直接市税の総納入額を三等分して、多いほうから三分の一までのものを一級選挙人、三分の二までのものを二級選挙人、それ以下のものを三級選挙人とする。③選挙は下級の三級を先にし、終わったあと順次上級の二級・一級に着手する。④各級の議員定数は、それぞれ一〇人ずつ、計三〇人とする。⑤投票は、連名(一〇人連記)による。⑥議員の任期は六年、三年ごとに半数を改選する。半数改選の初回は退任者を抽選で決める。

 第一回の三級制による市会議員選挙は、明治三十年(一八九七)六月一日、三日、四日におこなわれた。選挙運動はかなり激しく展開され、いくつかの派や組合、町、区等による推せん母体から各級の候補者があげられた。新聞紙上に候補者の公告がみられるのは五月二十二日からである。以後投票日当日まで連日にわたって公告がみられる。それによれば主な推せん母体は、「長野市選挙有権者有志」、「長野市十三部落連合有志」、「長野織物商組合」などである。このうち選挙有権者有志の派は旧町会議員が中心で、大字長野・鶴賀・西長野・南長野・県町・諏訪町・茂菅等を地盤にしたものでもっとも有力であった。織物商組合はだいたい旧議員派の同じ方向をとるもので、強いて運動はしなかった。どの推せん母体も各級の候補者は、同士討ちをさけるため議員定数の一〇人以内を立てたが、織物商組合の候補者は、一級八人、二級五人、三級三人が旧議員派と同一人であった。

 選挙人は三級に分けられ、各級の有権者数は表2(『二十年間の長野市』)にみるとおりであるが、被選挙人は自分の属する級に関係なく下の級から立候補し、落選した場合はつぎの上級に重ねて立候補できることになっており、その選択は各推せん母体や候補者の作戦にまかされていた。初回のこの選挙でも、三級で次点になった候補者一〇人のうち九人がつぎの二級に立候補している。


表2 半数改選年度別の級別市会議員有権者数 ( )は人口比率%

 選挙会場は東之門町寛慶寺が当てられ、三級から順次日をおって一〇人連記でおこなわれた。投票当日会場には、選挙係長、立会人が居並び、出入り口は警官が取り締まり、付近の地も巡査が警衛するという情景であった。

 選挙の結果、当選者は表3(『二十年間の長野市』)のとおりであるが、三級・二級・一級とも旧議員派の全勝に終わった。三級当選者一〇人は最高得票四九一票から最低三九八票、二級当選者一〇人は最高得票一三三票から最低一一七票、一級当選者一〇人は最高得票四一票から最低三五票であった。


表3 第1回市会議員当選者30人(得票高点順)

 最初の市会は、六月十四日に開かれた。この市会では議長と議長代理者の選挙がおこなわれ、議長には前島元助、議長代理者には水品平右衛門が選出された。当時の市会は必要に応じ招集されたので回数もかなり多く、明治三十年から三十三年までは年間二十数回から三五回開会している。審議件数も各年度三〇件から四〇件におよんでいる。とくに市制スタート当時の市会には、市区改正・水道・衛生・公園・中学校女学校その他多くの課題が負わされていた。

 初回の選挙から三年を経過した明治三十三年(一九〇〇)六月、市会の半数改選をおこなうにあたり、各級五人、計一五人の退任者は抽選で決められた。このうち二級の一人は死亡しており、また、留任者の二級一人と一級一人はすでに辞職していた。そのため、この半数改選では辞職者二人の分を含め計一七人の選挙となった。主な推せん母体は、議員中心の連合派、北信倶楽部、同志会の三派であった。しかし、北信倶楽部は連合派に同調し同志会も候補者のほとんどが連合派と同一であったため、当選者は連合派が三級補欠をふくめ六人、二級補欠をふくめ四人、一級補欠をふくめ五人と大勝に終わった。この連合派優勢の勢いも、つぎの明治三十六年六月半数改選からは、選挙のようすに変化がみられることになる。


写真3 長野市会議員当選告知書
(藤井一章所蔵)

 この選挙のあと三十三年九月国政段階で立憲政友会が結成されると、十二月政友会北信支部が発会、その下部組織として翌三十四年四月長野市には長野政友倶楽部が発会した。この政友倶楽部には、前回半数改選で大勝した連合派の有力市会議員の大半が加入していたが、三十五年八月の第七回国政総選挙における長野市の立候補者擁立で北信倶楽部との対立が起こり、長野政友倶楽部の一部が脱会し別に長野政友同志倶楽部を組織して争った。この対立は、三十六年三月の第八回総選挙および同年六月の長野市第二回市会議員半数改選にまで持ち込まれ、今までになく激しい選挙戦となった。

 政友倶楽部は事務所を大門町清水屋に置き、候補者一五人を立てた。政友同志倶楽部は事務所を若松町鴻静館に置き、候補者六人を立てて戦った。選挙戦は初回に増して激戦となり、両派の争いは伯仲する勢いであった。投票は六月二日からおこなわれたが、選挙結果も当選者は政友倶楽部九人、政友同志倶楽部六人であり、各級の得票数も三級では前者二六一五票、後者二六八七票、二級では前者七九三票、後者五五三票、一級では前者二〇〇票、後者一〇三票とやはり伯仲した結果となっている。一五人の当選者を職業別でみると、商業一三人、無職二人であり、町別では問御所、西後町、権堂、新町が各二人、大門、東後町、伊勢町、横沢、西町、下西町、千歳が各一人であった。

 この両派の抗争は明治四十年代まで持ち越され、市会における議長や参事会員、市長などの選挙にも波及した。

 また、この三年ごと半数改選の選挙は、明治四十四年法改正により市会議員の任期が四年となり、半数改選が廃止されるまで四回おこなわれた。しかし、三級制の等級選挙はさらに残され、大正十年(一九二一)の法改正で二級制になるまで八回おこなわれた。なお、長野市は大正十二年(一九二三)七月吉田・芹田・小牧・三輪の一町三ヵ村が合併して人口が一挙に三万八〇〇〇人台から六万人を超え、市会議員定数は三六人となった。これらの推移は表4に示すとおりである。


表4 市制施行から大正期の長野市会議員選挙