市長・参事会員・助役・区長等の選挙と行財政

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明治三十年(一八九七)四月一日から市制が施行されても市長や参事会員・助役などが決まるのは、市制により市会議員選挙のあととされていた。市長は市会によって推せんされた三人のなかから、内務大臣の裁可で決まることになっている。そのため、市長が決まるまではそれにかわるものとして、それまでの長野町町長中村兵左衛門が四月一日付けで「市役所事務取扱」を命じられて事務を進めた。最初の市会は、六月十四日に開かれた。長野町当時欠席が多かった議会も、この初議会には議員三〇人中二八人が出席した。長野町当時の議長は町長であったが、市制では「市会の互選によって議長をおく」となっているので、この市会では、議長と議長代理者の選挙が主であった。議長が決まるまで最年長者の宮下銀兵衛が仮議長をつとめた。選挙の結果、議長には前島元助、代理者には水品平右衛門が当選した。


写真4 長野市長就任に関する奏聞裁可書
(国立公文書館所蔵)

 六月二十五日、内務大臣は市長候補者を推せんするよう長野市に命じてきた。これを受けて長野市では七月二日、市長候補者三人を推せんするための市会を開いた。出席議員二六人、議長と議長代理者が就任のあいさつをし、議長は「会議仮細則」の編成を告げ、議事録署名議員二人をあげたあと、つづいて候補者選挙に移る。候補者の決定は過半数の得票者とされていた。第一回の選挙では佐藤八郎右衛門が二四票の過半数で当選、第二回の選挙では中村兵左衛門が一六票の過半数で当選、第三回の選挙では過半数なしで高点者二人の決戦投票となり、結果鎌原仲次郎が一五票で当選となった。この三人の市長候補者は、第一回の当選者を筆頭にそれぞれ得票数を付して内務省に送られ、七月十三日候補者筆頭の佐藤八郎右衛門が初代長野市長として裁可された。


写真2 初代市長佐藤八郎右衛門

 七月十八日の市会では名誉職参事会員の選挙をした。市制によれば、①参事会は市長と助役および六人の名誉職参事会員で組織する、②市会の議事を準備し、市会の議決を執行する、③市会の議決がその権限を超えたり公衆の利益を害するなどと認めたときは、議決の執行を停止したり再議させることができる、④名誉職参事会員は満三〇歳以上で選挙権をもつもの、⑤任期は四年で二年ごとに半数改選、⑥市長の職務を補助し、市長に故障あるときは代理をする、などと規定されていた。代議と行政の両機関におよぶ大きな権限をもつものであった。したがって、必ずしも市会議員から選ぶ規定はなく、議員以外の公民中より選ぶべきだという世論もあった。選挙の結果は、羽田定八・鈴木小右衛門・藤澤長次郎・藤井平五郎・永井喜右衛門・太田義夫が当選した。この六人はいずれも市会議員であった。

 七月十九日市会では、助役に中野精一郎を、収入役に宮下太七郎を選出して、市会が選ぶ役所内の選挙は七月下旬にようやく済み、七月二十六日の市会では、これら市吏員(りいん)の俸給定額を議決した。市長年俸六〇〇円、助役年俸三〇〇円、収入役年俸二二〇円である。このほか書記以下の市職員定員として、書記一五人、雇員一〇人、給仕一人、使丁一人を議決した。

 市会には、もう一つ行政の補助機関としての区長とその代理者の選挙が課せられていた。市制によれば、①市は参事会の意見により区長とその代理者を置く、②区長・代理者は名誉職とする、③区長・代理者は市会において、その区または隣区の公民中選挙権をもつものより選挙する、④区長・代理者は市参事会の機関となり、その指揮命令を受けて区内の市行政事務を補助執行する、と規定されている。

 九月十五日、市会は区長・代理者の選挙をした。市制発足当初、長野市は行政区を第一区から第三六区までとした。二年後には二区増えて第三八区までとなり、各区に属する町名は表6のとおりである。区長選挙の具体的な方法は市制にもとくに規定はないが、各区から区長・代理者の候補者それぞれ三人ずつ推せんさせ、区会が区長一人、代理者一人を選挙し決定した。この区長の任期は二年であった。


表6 明治32年長野市の区番と町名

 こうして長野市の行政組織ができあがったが、行政の課題は山積していた。市制発足当初から明治四十年までに、長野市が実施した多額の財源を要した主な事業は表5にみるとおりであり、それをふくめた諸事業に対する年々の市財政の歳入・歳出の状況は表7・表8のようである。市民にとってはこれらの市税のほかに県税や国税もあり、大きな負担であった。そのため市民の納税状況はかなり苦しい状況であった。市制発足当初の明治三十年十月十八日、佐藤市長は市民の滞納善後策として、諸収入金督促条例の改正を内務大臣に申請した。その内容は、納期内に完納しないものに対し、従来二回目の督促で手数料を徴収することになっていたが、それでは手数もかかり期限も長くかかるので、一回の督促で一通ごとに三銭の手数料を滞納金と同時に徴収する、さらに督促を受けてもなお期限内に完納しないときは、市制第一〇二条の国税滞納処分法により処分する、というものであった。この申請は同年十二月二十三日裁可されている。


表5 明治30年代の主な事業


表7 歳入総額に対する主な科目の割合  単位:円、%


表8 歳出経常費総額に対する主な科目の割合  単位:円、%

 国税については、市制施行当時滞納報告人員は納税者一〇〇人中二二人、以後年々その数を増し三十六年には三二人の多数となった。しかし、明治三十七~三十八年の日露戦役を機会に、市は税務署と協力して一般納税者に対し納期前に極力督励して、以後しだいにその数を減じ、四十年には一八人となった。市税徴収税額は、市制施行当時一万七千余円で、一戸当たり平均三円一六銭一厘であったが、明治四十年には、市税徴収税額は七万八千九百余円で、一戸当たり平均一一円六二銭二厘と大きな増加がみられる。この市税の負担増加により、やはり市税滞納者も多くなった。市制施行当時、市税・県税滞納者への督促状発行数は、県税が納税者一〇〇人に対し一一人、市税は二一人で年々その数を加えた。市はその善後策に苦心したが、滞納の風潮はその勢いを増し、明治四十二、三年にはその極に達し、県税督促状発行数一〇〇人中三一人、同じく市税五二人の多数にのぼった。このような状況のなかで、表7でわかるように財源の不足は年々一割以上の市債で補い、表8の歳出臨時費の公債費で返済した。それにしても、明治三十八年の歳出公債費は臨時費総額の九五パーセントを占めている。

 全般として歳出では、各年とも初等教育、中等教育ともに学校建築などが多く、教育費に要する費用が圧倒的で、とくに明治三十六年、三十八年には教育費は歳出経常費総額の七割以上を占めていた。