市庁舎の新築と移転

590 ~ 595

市制はスタートしたが市庁舎はなく、それまでの町役場の建物を仮庁舎として使用することにしたが、市庁舎の建築は新生長野市のもっとも急を要する大事業であった。長野市はそれ以前の長野町(戸長役場の時期もふくめて)当時から、役場位置は転々と移動し、建物も専用の庁舎を建てたのは市制施行のつい数年前であった。はじめにその移動状況を記すと大略つぎのようである。

 明治十八年(一八八五)四月、長野町・南長野町・西長野町・鶴賀町・茂菅村は、「長野町外四ヵ町村連合戸長役場」という行政区を設置し、その役場をいったん当時空寺(あきでら)であった元善町の旧宝勝院に置いた。同年七月には、この役場を長野町四〇四番地旧宝林院念仏堂へ移した。ここは明治初年学制発足当時、長野市が現城山小学校用に買い入れたもので、校門通路南側に当たる位置にあった。

 明治二十年二月二十日戸長役場は、長野町第六四二番地旧裁判所勧解廷(かんかいてい)跡(写真5の町役場位置)を借り受けて移転した。勧解廷は、当時裁判官が原告と被告のあいだにたって民事上の争いを和解(今の調停に相当)させるためのものであった。この付近にはほかに上水内郡役所、長野県庁、師範学校、附属学校、活版所等もあり、当時の官公署や文教機関の中心地であった。なお師範学校と長野県庁の位置は、現在の信州大学教育学部のキャンパスである。


写真5 明治24年発行の長野町絵図(部分)にみる政治・文教の中心部

 明治二十二年四月、市制・町村制の施行により、それまでの連合戸長(こちょう)役場の範囲を合わせて新たに長野町となったが、町役場の位置は変わらなかった。県へ届けでた役場位置は、「長野町大字長野の内立(たつ)町」となっている。長野町の二十三年度歳出入予算書によれば、この役場借家料は年間七二円となっており、一ヵ月六円で民家を借用していたのである。

 明治二十七年十月二十九日、長野町は初めて役場専用の建物を新築して再び現城山小学校構内へ移転した。今度の位置は、校門通路北側の場所である。これは、明治二十四年六月の大火で現城山小学校も全焼したため、同二十七年十月長野町高等小学校として再建するさいあわせて町役場を建てたものである。この役場庁舎がつぎの市役所庁舎新築まで仮庁舎として使用されるのである(写真6)。


写真6 長野市役所開庁式をおこなう(向かって左端低い屋根の建物)

 長野市制実施が決まった直後の明治三十年三月十二日、長野町では町会を開き、現城山小学校と役場(市役所)のどちらも建築の急を要する問題であるが、学校構内にある今の町役場を学校に転用し、市役所を建築することを決議した。位置については適当な土地がないので、県庁東側空き地の一部の借り受けまたは払い下げを県へ願うことにし、建築その他の担任として前島元助・永井喜右衛門・羽田定八の三人をあげた。三人は早速県に対し、県庁書籍倉庫場所の借り受けを出願したが聞き入れられず、一坪一円五〇銭ぐらいの予定で県会の決議をまって払い下げを受けることになった。ところが三月末の県議会には、払い下げ価格を一円値上げした一坪二円五〇銭で長野市へ払い下げるという原案で提案された。この議案審議では、田中救時議員が、一坪二円五〇銭で売るよりは他に利用する方が利益がある、そうすれば公債証書で置くよりも収益が大きいと発言し、これに対し百瀬清議員は、同じく原案には反対だが、これに反対すれば将来長野市が意地をまげるおそれがある、などと発言したが、けっきょく原案どおり決議された。

 長野町では同年三月三十日最終のお名残町会を開き、市役所位置については県会決議の価格で買いとることに決した。この町会には、市役所の位置について、今までの町役場所在地の東之門(城山小学校構内)とする付近の町々からの意見書が出され、そのために寄付金を申し出したり、市会当日の傍聴に出かけるものがあった。

 敷地も決まり市庁舎建築に向けて動きだす段階の、七月十一日『信毎』は、その建築についての意見として、東京の区役所にならい、周囲を土間とし市民が自由に各係の受け付け口まで行けるようにし、各係主任がみずからその窓口にいて、即決に対応するように計画すべきである、という投書を掲載して、建築設計への配慮をうながしている。

 こうして、最終的には若松町通り県庁東隣の空き地に洋館の庁舎を建築、総建築費は八七六一円五一銭二厘、工事請負人は市内桜枝町の風間善太郎と決まった。

 多額の財源を要する市庁舎の敷地購入や建築費の財源として、長野市は市税だけでは足りず市債でまかなった。明治三十年度には、市役所敷地購入および建築費のための市債は三六九六円、年六分~一割の利率、同三十一年度の市債は五一六〇円、年一割の利率であった。この両年度とも歳入・歳出総額の主な事由として、市役所の敷地購入とその建築をあげている。

 市庁舎建築の起工は、三十一年一月十五日であった。同年八月二日の竣工を予定して始められ、六月にはすでに素建てが終わり、屋根および内部の造作にかかっていたが、この新庁舎は丹波島などから望むと明らかに見分けがつくほど広大な建物であった。しかし、予定の八月には竣工せず工事は若干おくれた。

 十月十三日の市会では、三十年度決算報告の認定と新築市役所開庁式について議している。つづいて十月三十一日の市会では、市役所開庁式の準備について、参事会員と議員中から五人の委員をあげ、ほかに区長から五人、市民から五人をあげ、区長の委員は互選で選び、その他の委員は参事会員に選任をまかせることに決まった。この準備委員は十一月四日に集会し、開庁式は新築の役所内で、祝宴は城山館でおこなうこと、また余興としては花火を打ち上げることなどを協議した。

 いよいよ十一月十三日(日曜)は新庁舎落成式である。今までの現城山小学校構内の仮庁舎(旧町役場)から移転しての開庁である。

 この日のようすについて『信毎』は「新築長野市役所開庁式の模様」と題して、大意つぎのように報じている。市役所の石門前には大きなアーチをつくり国旗を交差し菊花でつくった「祝賀式」という額を掲げ、アーチの両側にはこもでおおった四斗樽を山形に積み上げ、球灯を上からたらして光景を鮮やかにした。式場には議事室の大広間をあて、よく茂った蒼(あお)松を挿した大花瓶を置いて飾った。午前九時に開式、来賓は園山知事、各役所の高官、県会議員一同、隣村長、その他市中の紳士、新聞記者および市吏員、市会議員、区長等である。君が代奏楽、佐藤市長開庁の式辞、園山知事・波田腰県会副議長・高松信濃毎日新聞社員・渡辺長野学校長の祝辞などがあった。終わって午後一同城山館で祝宴会、当日の来賓は総数五百余人、さすがに広い城山館も広間と二階に分けても間に合わないほどであった。いっぽう各町ではそれぞれに工夫をこらした出し物を街に繰りだし、昼から夜まで長野市万歳の声が全市にあふれてもっともめでたい光景であった。

 このあと、新庁舎への移転作業と整備に一週間かかり、事務の開始は、十一月二十一日(月曜)であった。新庁舎内議事室での初市会は、十一月二十六日に開かれた。この市会では、松本長吉らより寄付による役所庭内の植木を収受する件を議決した。つぎに役所新築費寄付金については、理事者の発言に不明な点があり、補正のうえ提出して原案どおりに可決した。この新庁舎はその後数回にわたり増改築して規模を大きくしながら、昭和四十年(一九六五)緑町の市庁舎へ移転するまで、六六年間使用されることになる。

 なお、城山の旧市役所仮庁舎は、このあと校舎に改造され西校舎の名で使用されたが、かつて町役場として急造したこともあってか、早くも二〇年後には老朽化し、大正六年(一九一七)にほぼ同じ場所に校舎が全面改築された。


写真7 長野市役所庁舎 (明治41年『長野県案内』より)