町村財政の推移

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明治三十年代になると、政府は各方面にわたって行政の整備をおこない、その費用を町村に負担させた。二十年代のコレラなど伝染病による苦い経験から、三十年(一八九七)に伝染病予防法を公布し、施設までも町村維持とした。また三十三年には小学校令を改正して義務教育年限を四年とし、原則として授業料は無料とした。このように保健衛生、教育や産業育成など広範囲にわたる行政上の義務の増大は、町村財政をふくらませる結果になった。

 町村税は国税地価割り付加税、県税戸数割り付加税(戸別割り)に負うところが大きく、災害復旧時などには公債発行とともに臨時的に特別税反別割りが加わる。そのほかの財源としての財産収入、使用料・手数料、国税・県税徴収にともなう交付金や県・郡補助金はいずれも微々たるものでしかない。地価割りは、各自の所有する地価に応じて課せられるので作為的なことはできにくいのに対して、戸別割りは、各戸の資力が「見立て」によってランクづけされた等級に応じて賦課(ふか)され、かつまたそれが地主・自作農によって構成されている町村議会で決められるので、上位課税額と下位の格差が縮小しがちである。

 現長野市域の四二町村について、地価割りプラス特別税反別割りと戸別割りがそれぞれ税収の何パーセントを占めているかを算出してみると、明治三十年においては前者の割合の方が高かった町村と後者の方が高い村とが同数の二一村であったが、三十五年になるとそれぞれ一五村と二七町村に変わっている。毎年、財政の膨張するなかで、課税の流れは地価割りから戸別割り重視に移行している。その三十五年の戸別割りが税収総額の何パーセントを占めているか、また一戸当たり平均戸別割り負担額はどの程度であるのかをみたのが図1である。


図1 明治35年町村別「戸別割り」の比重
(長野県内務部『長野県市町村財政一覧前編』明治37年5月県行政文書より作成)

 戸別割りの一戸当たり平均負担額の大きさと、課税総額に占める戸別割りの割合のあいだには相関関係があるとみることができる。これらの村々のうち、図のほぼ中央に位置している豊栄(とよさか)村と左端にある寺尾村について、明治三十年代の財政事情を探ってみることにする。

 まず、豊栄村の財政状況について日露戦争前の三十四年、三十六年と最中の三十七年、直後の三十九年を対比すると、表9のようになっている。歳出では、三十四年は役場の物置の建築と小学校の新築が重なって臨時歳出を多くしている。公債費は二十九、三十年の水害による土木費(治水費)の影響によるところが大きい。経常歳出の四二二円には、松代町外五ヵ村連合組合の設立した高等小学校に加入している負担金三五三円がふくまれている。しかし、松代町は遠方で、服装にも気をつかい、通学の途次に児童の目にふれる有害なものがあるなどかねてからの理由で、三十五年四月から尋常小学校に高等小学校が併置され、連合組合は解散になった。組合負担金はなくなったが、それとともに教員が一人増員され、教育費の俸給、雑給、校費(需要費)は大きくふくらんだ。また、小学校に付設された農業補習学校も同様に影響している。三十七年は日露戦争勃発にともなって地租が増税となり、地方税は抑制を余儀なくされた。緊急性のない事業は差し止められ、経費の節約を迫られたが、戦争が終結して三十九年になると、経費・事業は一気に戦前の水準を上まわった。三十八年秋から小学校の基本財産の造成と愛林思想をつちかうために学校林が設置され、杉苗の植栽が始まっていた。さらに、同年から学校基本財産積立金の経常費目も設けられている。こうして三十九年の教育費は経常費の六割近くを占める大費目になった。


表9 豊栄村財政収支(決算)  単位:円、(%)、〈%〉

 つぎに歳入をみると、村税収入に占める戸別割りの割合が、三十四年の六九パーセントから三十九年の八〇パーセントにまで高まっている。三十四年には臨時歳出のための公借金(三一六六円)があり、水害に関する土木公債償還のために地価割り(付加税)と特別税反別割りを課している。その分だけ戸別割りの割合はほかの年度と比べて低いが、戸別割りが村税のよりどころとなっているのは明らかである。

 いまひとつの寺尾村の財政をみるとつぎのようである。

 三十年代の財政をみるに先立って、千曲川の大洪水にみまわれた二十九年の対策にふれておかなければならない。同年からの復旧対策のために起債をおこない、三十四年まで毎年千数百円の公債費を支出しているいっぽうで、それとほぼ同額の財源として、特別税反別割りを新設した。しかし、三十四年に公債の償還が済んでも反別割りは三十六年まで存続し、そのかわり戸別割りがいちじるしく削減された。三十六年の反別割りは臨時費としての小学校校舎建築積立(七七九円)を意図したものであった。

 日露戦争中には緊縮財政を余儀なくされ、反別割りがなくなり、それにかわって戸別割りが引き上げられた。それは四十年の財政拡大期になると、地価割りの削減とは対照的に突出している。四十年には、村はまた千曲川の大水害をこうむり、臨時費としての土木費一五五三円が計上された。

 しかし、二十九年のときとまったく異なり、寺尾村でも遅ればせながら、税収は基本的に戸別割りに依存する体制ができあがった。