議会の毎年の任務として重要なのは村税の決定、賦課(ふか)である。さきに見たとおり、県税戸別割りが四月の議会で各戸ごとに等級づけされ、資力に見合っているか検討される。資力の見立て基準となるものは所有地価金であり、それに生計上の事情が加味されたようである。したがって、村議会で特定の家(戸)の等級づけについて議員から出る質問は、前年と比べて土地に異動があったかどうかが多い。明治三十二年(一八九九)四月の埴科郡豊栄村の議会で、戸別等級表で地価金三〇〇円の所有者と同四〇〇円のものと同じ一〇等級であるのはなぜかという質問が出たとき、議長である村長は、本村においては地価金の高低で等級づけすればはなはだ不公平を生ずるので、暮らし向きも加味して総合的に判断した、と答弁している。
こうした議論をふくめて、豊栄村の一等級から末尾の二六等級まで、各戸の等級づけ変更の動議が数十件ほどつぎつぎと議員から提起されたが、それらのほとんどが可決され、否決は数件にすぎない。そうした結果を三十九年度の等級別戸数でみると、議会にかける前には一等級四戸、二等級一戸、三等級三戸となっていたものが、議会でそれぞれ二戸、二戸、四戸に変更され、さらにそれらの各等級の一戸当たり賦課額も以前より引き下げられた。その差額の軽減分は中・下位の農家が負うことになり、賦課総額としては同じになっている。
議会で課税額が決定しても、町村税の滞納はいずれの町村にとっても悩みの種であった。県は明治三十四年八月に町村税滞納弊習(へいしゅう)打破の訓令を出している。豊栄村では村税滞納者のうち、隣の西条村に本籍のあるものに対しては、同役場に督促(とくそく)状の交付を依頼している。また督促状を送っても受け取りを拒否するものもいた。滞納者が行方不明であったり、極貧のため、三十七年五月には三人からの徴税が放棄された。これとは別に、日露戦争に出征した納税義務者の家族で婦女子のみが残されて家計に困難をきたしたために、同じ日の議会で、納税と高等小学校授業料が免除された家もあった。
選挙について、まず村長選挙のようすをみるとつぎのようである。豊栄村では明治三十年四月は任期満了にともなう改選の時期にあたっていた。出席した村会議員九人が一番から順次投票をおこない、年長者二人が立ち会って開票した結果、過半数をとった春原佐右衛門が当選した。そのあと引きつづき、助役の投票をおこない、やはり立ち会いのもとで、過半数をおさめた青山吉治が当選している。
村会議員の改選は一級議員(六人)、二級議員(六人)ともにそれぞれ半数ずつが三年ごとに改選となる。明治四十年四月一日の豊栄村の選挙では、午前八時から一一時まで二級選出議員の選挙がおこなわれ、ただちに投票箱閉鎖後、一一時三〇分から開票作業が始まった。その結果、五五票、四九票、四五票の三人が当選と決まった。このとき、次点は一〇票でそれ以下は八票、六票、五票、二票の順で、一票は八人いた。村会議員選挙の有権者二三六人中二級選挙権者は一八七人であったが、投票者は六五人(三四・八パーセント)にすぎなかった。つづいて午後一時三〇分から三時三〇分まで一級選出議員の選挙がおこなわれた。結果は二二票二人と一九票のものが当選となり、次点は八票、以下二票三人、一票四人であった。一級選挙は選挙人員四九人中二七人(五五パーセント)が投票をした。午前の二級選挙で一〇票、八票、五票を取ったものが一級選挙で当選している。投票はいずれも一枚の投票用紙に三人連記であった。
小学校建設地について村議会をも巻きこんだ村の紛糾(ふんきゅう)がしばしばみられた。更級郡塩崎村と川柳(せんりゅう)村の組合立塩崎尋常小学校は増築が必要になったのを機に、組合を解散することになった。明治三十三年五月に大塚広更級郡長から、塩崎小学校の位置について本校は字町屋敷とし、分教場を字古堂に建てる諮問があった。この案を村会にかけたところ、学校は本校のみとし、分教場を本村北部の篠ノ井に建てると、南部の長谷郷と比べて公平を欠き、分教場を二ヵ所にすれば村経済がたえられないという理由で、当分、分教場は設置しないことになった。しかし、郡長は村会答申を無視して原案を告示したので、長谷郷住民はおさまらず、郡役所と住民の板ばさみになった村長は辞任した。三十四年七月、新村長のもとで議会が開かれ、長谷郷住民から要求の出ていた長谷尋常小学校設置案を討議した結果、村の平和を保つためには、せめて長谷分教場の設置はやむをえないとされ、それを郡長に上申することにした。
いっぽう、長谷郷住民代表は独自に直接、郡役所へ長谷尋常小学校設置を請願した。郡役所から、村としての意見を求められた当局は、村会を開いて意見書の作成をおこなった。そこには、北部篠ノ井と比べて長谷郷の不利が請願の原因であり、やむをえず感情に訴えたものであると書かれている。これが提出されて五年後の三十九年になって長谷分教場の認可があり、四十年から町屋敷に本校の建設が始まった。郡役所の専断に振りまわされた村会と村当局であった。
埴科郡寺尾村の小学校の校舎新築にまつわる紛議には根の深いものがあった。寺尾村には村の南北に各一校の小学校があり、三十五年からその統合が話題になった。その紛糾ぶりは同年四月二十九日付け『信毎』にも掲載されている。同年三月十二日の村会では学校位置改造論議となり、紛糾したので本会を一時閉場して協議会とし、そこで議論することになった。同年九月になって、四人の学校位置選定委員を決めた。十月三日に、村に一校を設置するときはその位置を大字東寺尾字北平一里塚と定め、付帯の条件として同所に役場も移転建築することが満場一致で決まった。これを受けて新築材料と敷地構造について、更級・上下水内郡、上下高井郡、小県・東筑摩郡の三方面に分かれて実地視察することになった。ところが、三十六年四月になって、濱音之助埴科郡長から、小学校を一校とし、その位置として大字柴字海老原の畑六反歩を指定して、村会に諮問してきたが、村会では諮問の土地には同意できないと、即座に答申している。けっきょく、日露戦争後の四十二年になっても解決せず、二小学校の新増築になるのである。