住民生活と直結する区の活動

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明治二十二年(一八八九)の町村制施行にともなって設置された区の活動は、区の利益や財産確保のためあるいは伝染病予防・救助の実をあげるため、こまかな管理規定をつくって、人々の生活に密着して進められている。

 長沼村第三区(津野)では、明治三十一年四月「長沼村第三区規定」を定めている。そのなかでは区の役員とその選出方法および協議会の議決すべき事項についてとりあげている。

 茂菅(もすげ)区では、区共同の利益を発達させ幸福を増進するためとして、三十二年「茂菅区規約」を定めている(その後、明治四十一年に改定)。主なものは①区の協議委員会で、消防団の維持、区費の賦課と徴収、兵士の送迎と優待、道路の修繕、衛生、村社維持のほか、県下初の電灯事業を開始した長野電燈会社との特約等の決定をする、②区の事業を推進する役員とその任期は、氏子総代と消防役員は満三年、伍長と祭典係は満二年とする、③協議委員の選出方法と任期、④区の役員選出の選挙権、などが決められている。

 大豆島(まめじま)組では、「大豆島村大豆島組管理規程」を、三十五年三月の組総会で定め七月から実施している。大豆島組では、各戸から組費を集め、三人の総代の事務取扱費、神社および祭典費、寺院費、組有財産維持費等にあてるとしてあり、任期一年とした協議員一五人の選出方法や正副総代の報酬(正・一年七円、副・一年一円五〇銭)などを決めている。

 これらの内容をみると、区長・総代については、津野区では区長・区長代理候補の選出を区でおこなっているが、三十五年の大豆島区では住民による連記記名投票によって南・中・北組から総代各一人を選び、三人の総代の互選により正副総代を決めており、住民による選出が始まっていることがわかる。その任務は、外部に対しては組を代表して評議する(大豆島区)ほか、内部においても、①総集会の招集や費用の徴収を伍長に告知・嘱託する(津野区)、区民総会や協議会の招集およびそれぞれの会の会長の任にあたる(茂菅区)、総会や協議委員会を開閉し議事を進める(大豆島区)、②区の選挙人名簿の作成や開票主任等選挙に関するいっさいの責任者となる(茂菅区)、③役員の引き継ぎの立ち会いをはじめ組のいっさいの事務処理、組有財産・証書・公文書類の保管、組の会計の整理をする(大豆島区)、④祭事には祭典係を指揮する(大豆島区)など、種々の責任者となっていることがわかる。そのほか、氏子総代・信徒総代となって神事・仏事を統轄したり、墓地・火葬場の管理者となる(大豆島区)、衛生組合の経費・予算の編成と衛生組合長を助けて清潔法を励行する(茂菅区)など、付随する任務もいくつかあった。

 区長あるいは総代のもとで、区の意思決定にあたった区会議員あるいは協議委員の選出規定はつぎのようなものがみられる。津野区の場合、被選挙権は、①公権を有する二五歳以上、②一戸を構え、③地租を納めるか直接国税を納めるものにあるとされている。協議委員は一二人で、地租四円以上を納めるもの六人が一級選挙で選ばれ、他の六人は二級選挙で選ばれると決められており、町村会議員の選挙方法が取り入れられている。なお、任期は二年で、一年ごとに半数を改選すると規定されている。

 茂菅区の場合は、選挙権・被選挙権は、①満二〇歳以上、②男子、③地区内に居住するもの、④直接区費を負担するものとされている。協議委員は一二人(四十一年の改正で八人になる)で、これまた津野区同様、二級選挙制で選ばれている。投票は連記無記名投票で、任期も同じく二年であった。

 また大豆島区の場合は、選挙権は、①古くから大豆島に住居を構え、②大豆島組有財産権利者人名簿に登載されたものにあたえられ、選挙権をもつものは組の名誉職を分担する義務があるとされた。協議員は一五人(南・中・北組から各五人)で任期は一年であった。

 このように区会議員あるいは協議委員の選出は、選挙資格、人数、任期とも地区の実情により異なっていたが、制限選挙であった点は共通している。

 このように、当初は村長の補助的機関として設けた区長も、実際は地域住民の自治の中心となって活動していた。区は、住民の日常生活から切り離せない、基盤となる社会であった。区の行動が村政を動かした具体例は、上高井郡川田村(若穂)にみられる。

 明治三十四年七月、牛島の区長らが、町川田組委員のところを訪れた。「村会で決議した学校改築は費用が多額であり、毎年連続して水害にあっている村民の生活は苦しくなっているので、延期の請願を出したい。町川田組でも組の人たちの意見を聞いて賛同し、同一歩調をとってほしい」というものであった。

 町川田組では、連夜会議をもって、伊藤・橋本・青柳・依田の四人の委員を選出して検討を進めた結果、延期の請願をすることになった。さきの四人と、ほかに総代四人の計八人が、牛島の代表とともに村長に請願した。村長は、「村会で満場一致で確定したものなので、今になって変更して延期するということはできない」との返事をした。組では再三話し合いをもち、代表を追加選出して一〇人にし話を進めていった。七月末には、長野の弁護士宮澤長治を訪ね、事情を説明し相談をした。「村会の議決もありどうしようもない。ただ郡長に対して窮状を訴え、教育の支障にならない程度に延期あるいは縮小の陳情をする以外に方法はない」といわれ、陳情文の作成を依頼して代表は村へ戻っている。

 八月になると、陳情に必要な五年間の人口・学齢児童数と通学児童数・地価・洪水被害・現在使用中の校舎の坪数等について、役場の書類を閲覧し写しとっている。宮澤のほかに宮下一清(弁護士で県会議員)にも相談にのってもらうことになった。謝礼は一〇円とすることに決まった。書類がととのった八月七日、代表二人が村長に受け入れるよう申し入れたが、村長は「事実と相違がある。いずれ組へ出かけて説明する」といって応じなかった。代表は、ほかの四人といっしょにそのまま郡役所へ行き、郡長へ書面を差しだして陳情した。郡長は、「困窮の状況がわかった。村長へはできる限り不急の土木をおこなわず、校舎についても教育の支障にならない限り、やむをえないものだけとりおこなうようにと伝える」との話であった。

 これによって村長の立場は苦しくなり、翌八日、委員に対して村長はつぎのように述べた。「昨日村長のいうことに応じて帰宅するといいながら、郡役所へ陳情したのはきわめて不都合なことである。帰宅して集会のうえ知らせるとのことなので夜の十一時まで待っていたが連絡がなかった。そこへきて、本日郡役所へ行くと郡長よりひとつひとつ話があり驚いてしまった。村長としては議会の決定という筋を大事に考えたものである。しかし、財力が乏しいときなので、①役場建物の新築は当分延期、②学校敷地は当分借り入れとする、③学校改築はやむをえないものなので実行する覚悟である」というものであり、学校改築費のかわりに役場新築も延期となり事実上組の意向が通ったことになった。こうして学校敷地の検分をおこなったり、委員会の集会や伍長の意向を聞いたりしたうえで、村長の意向を受け入れることになった。九月半ばには郡長への陳情書を取り下げることにして祝宴を開き、十月中旬に郡長と面談のうえ陳情書の下げ戻しを受けた。

 今井(川中島)は、明治二十二年四月原村と合併して中津村になった。そのさい岡田山や中尾山(篠ノ井共和)にある共有地三四町歩余を、規約をつくって割山(わりやま)にして利用をつづけてきた。村人は木製山札を所持して、割りつけられた山の下草や枝払いの木を肥料や薪に利用してきた。その管理を委員と山見人を選んでおこなってきたが、その歳入歳出事情は図2のようである。歳入は貸地料一〇九円余と繰越金で合計二六七円余あった。この収入で、山にかかる地租と山見四人への手当六〇円、委員手当一円を払い、くぬぎ苗木一万五四〇〇本、からまつ苗木二〇〇本の代金と植付人労賃合計一四六円を払うなどをしている。こうした区の財産形成をしながらも、余剰金が出るほどであった。これに対し、原は共有林がわずかだったことから歳入総額が八円余というきわめて小さな規模であった。


図2 区の歳入歳出(明治36年) (「明治36・37村会議事書類」より作成)