市町村民の参政権拡大

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明治二十三年(一八九〇)に制定された選挙法は、日本臣民の男子で満二五歳以上で、選挙人名簿調製期日前満一年以上居住したもの、名簿調製の期日前直接国税を満一年以上のあいだ一五円以上を納めたものが選挙人資格を有すると定めている。男子のみの二五歳以上という年齢制限、直接国税一五円以上という財産制限は選挙資格者の数をいちじるしく制限するものであった。

 明治二十六年と三十一年の上水内郡の現長野市域に関係ある町村の有権者数は表10のようである。五年間で有権者の増加をみたのは、小田切・七二会(なにあい)・若槻・柳原・吉田・三輪・古牧・大豆島・芹田の九ヵ村である。そのなかで一〇人以上の増加は芹田村(一五人)・三輪村(一二人)・吉田村(一一人)・七二会村(一〇人)の四ヵ村である。五人以上が古牧村と柳原村の二ヵ村で、小田切村は二人、大豆島村は一人の増加となっている。これらの村々はわずか五年のあいだに有権者数の増加をみた。それに対し有権者数が減少したのは長沼村(九人)・芋井村(八人)・安茂里村(五人)・古里村(二人)・浅川村(二人)・朝陽村(一人)の六ヵ村となっている。なかでも減少が大きかったのは長沼村・芋井村である。


表10 上水内郡町村別有権者数

 明治二十六年度の直接国税一五円以上の納税者数と有権者数は表11のようである。居住年数の制限があるため直接国税一五円以上であっても選挙権がないものが存在したことが知られる。国税納税者で選挙権を有するものが一〇〇パーセントとなっているのは、小田切村・芋井村・浅川村・三輪村・古牧村の五ヵ村である。選挙権が認められない人が一〇人以上いるのが長野町(一六人)と芹田村(一三人)の二ヵ村で、五人以上が吉田村・朝陽村・長沼村・柳原村・若槻村の五ヵ村となっている。五人未満は七二会村(四人)・大豆島村(四人)・古里村(四人)・安茂里村(三人)である。現長野市域の国税一五円以上の納税者は七六〇人、そのうち選挙権を有するものが六八七人で九〇パーセントが有権者となっている。選挙権が認められないものは七三人となり、一〇パーセントは選挙権があたえられなかったといえる。


表11 国税15円以上の納税者数と有権者数(明治26年)

 明治三十一年の村別の戸数と有権者数は表12のようである。直接国税一五円以上という制限があるから、有権者は一戸に一人がふつうであると考えられる。戸数に対する有権者の割合をみると、最高は古牧村の一九パーセントで、朝陽村・柳原村の一四パーセントがそれにつづいている。しかし、その三ヵ村のほかはすべて一〇パーセント以下となっている。なかでも小田切村・芋井村・七二会村・長沼村の四ヵ村は五パーセント以下で、一般に純農村地域では割合が低いといえる。


表12 村別戸数と有権者数(明治31年)

 明治三十三年三月選挙法の改正により、財産制限が緩和され、直接国税が一〇円に引き下げられた。また、選挙区が一府県一選挙区の大選挙区制となり、人口三万人以上の市は独立選挙区となった。長野市は長野県のなかで最初の独立選挙区となった。二五歳以上の男子が有権者になることは依然変わらなかったが、財産制限の緩和により多少有権者の増加をみている。表13は明治三十九年の現長野市域の町村別有権者数である。表10の三十一年と比較すると有権者の増加数の地域的特色がうかがえる。大幅に増加したのは小田切村の約二十倍であり、七二会村と芋井村は約十倍の増加である。安茂里村と浅川村・長沼村は五倍以上に増加し、そのほかの村も二倍から四倍の増加となっている。平坦(へいたん)部は増加の仕方が比較的穏やかで、山間部が激しいといえる。


表13 町村別有権者数

 表14(『県統計書』)は明治三十六年の郡市別納税者数と有権者数である。上水内郡は、直接国税一〇円以上の納税者は二七三〇人で、納税者数に対する有権者数の割合をみると、九九パーセントともっとも有権者数の割合が高い地域であった。全県の割合は、約九十パーセントなので平均以上ともいえる。ほぼ全県の割合に近いのが長野市である。更科郡・埴科郡もともに九五パーセントで、これもまた平均を大きく上まわっている。全県のなかで北信地域は、他地域よりも有権者の割合が高く、平均を上まわる地域として位置づけることができる。


表14 郡市別納税者数と有権者数(明治36年)

 この衆議院議員選挙法の改正案は、明治三十年五月伊藤内閣が第一二議会に提出したものであるが、けっきょく衆議院・貴族院を通過し、政府が公布したのは三年後の三十三年の三月である。その間に『信毎』は、この問題をつぎのように取り上げ論じている。「選挙法改正案議会を通過し、議員の頭数二百を増さんとす、将(まさ)に補欠選挙の行われんとするの節あるや、滝澤助三郎、小池平一郎候補者として第一区にあらわれ自由派に当たる、高野大太郎等投票請負所を設く、警察も見て見ぬ振りするとのもっぱらの噂(うわさ)なり」と、選挙法の改正により補欠選挙があり、二人の候補者が当選すると紹介している。また、「市を独立の選挙区と為すべし」という社説も掲載している。この選挙法は、市町村を通じて選挙区とするために農家が投票の多数を占め、その結果、代議士の多数は農家出身となる。いきおい、選挙権を多くもつ農民の関心を得るため農民保護に一方的に片寄る欠点がある。したがって、農民保護と同時に商工業も保護し、ともに隆盛にしていく必要から、商工社会の代表の議員を増す必要があった。そうなるためには市を独立の選挙区とし、一人の代議士を選ぶこと、これは「今日の与論であり、商工業発達の原動を為さしむることは急務中の急務である」と主張している。三十二年段階で選挙法改正の運動は最高潮に達するが、長野市からも鈴木小右衛門と水品平右衛門が市の上京委員として上京し、この運動に加わっている。この年の一月、「市を独立の選挙区と為す」の意見書が、選挙法改正期成全国各市連合会から貴族院・衆議院に提出された。長野市も全国四四市のうちの一つに名を連ねている。

 改正選挙法による衆議院の選挙は、三十五年八月の第七回総選挙からである。この年の三月『信毎』は、社員律堂の「新選挙法と選挙競争」という社説を五回にわたって掲載した。これは、律堂が政友会機関雑誌『政友』に寄稿したものをそのまま掲載したもので、新選挙法のもとでどのように選挙競争をしていくかを論じたものであった。

 いっぽう郡制・府県制にもとづく郡会議員と県会議員の選挙は、明治二十四年いらいそれぞれ町村会議員と郡会議員による間接選挙であったが、三十二年七月の改正府県制の実施で、郡会・県会議員の選挙は郡民・県民の直接選挙となった。この時点で従来の間接選挙は解消されたが、有権者には直接国税三円以上という財産制限が依然としてあった。

 郡会議員の有権者をみると、二十四年段階の有権者四四六一人が三十三年には五万九九八六人と一三・四倍に増えたが、長野県人口の四・六パーセントにとどまっていて、まだまだ一般県民から遊離したものであった。しかも票を金で買う腐敗選挙の傾向は依然としてつづいたため、日清戦争後の物価騰貴(とうき)や貧富の差の増大などの社会問題の発生と連動して、選挙制度見直しを求める社会運動として高まっていった。