『月刊信濃雑誌』第二十八号に紹介された長野県の各郡の政況概報には、明治三十年(一八九七)の現長野市域の政治活動の状況として、「長野及び上水内郡は、小坂氏を中心とする実業派全く勢力を占領し、今や更級・上高井に波及し、更に埴科に及ばんとす、長野近傍自由党もその跡を収めざる可らず」としている。「小坂氏を中心とする実業派」とは、明治二十七年四月に結成をみた信濃実業同志会をさす。その同志会のメンバーには、小坂善之助・小島相陽・飯島正治・矢島浦太郎らがいた。二十七年の第四回総選挙で同志会は小坂善之助を候補にたて、自由党の滝澤助三郎を破り当選させている。「実業派全く勢力を占領し」とし、「自由党もその跡を収めざる可らず」とするように、この時期自由党は力を失い、それにかわって信濃実業同志会の勢力が長野市域の中心勢力となっていた。また、この勢力はしだいに更級・上高井や埴科地域まで伸びていたのである。この三地域は、従来から自由党の勢力の強いところであった。ここにいう自由党とは、明治二十三年に旧自由派の三派が合同で結成した立憲自由党をさす。二十三年の第一回衆議院選挙いらい、第三区に属する埴科郡と第二区に属する上高井郡では、ともに自由党から代議士を当選させていたが、第一区の上水内郡と更級郡では、自由党からの当選者がなかった。
このような状況下で自由党信濃支部は党内を結束し、党勢を拡張するために三十年五月埴科郡屋代町生蓮寺で支部大会を開催した。参会するものは北信地方から三〇〇人を数えた。党勢拡張のために党勢拡張費五〇〇円を設置し、各郡から委員二人をあげた。現長野市域に関係する上水内郡からは竹内治作・中野庄吉、埴科郡は小林喜曽平・若林忠之助、更級郡は宮下一清・玉井権右衛門、上高井郡は高橋駒之助・中村三折が委員となった。そして今後信濃支部は関八州会と合同で活動することを申し合わせた。
自由党は十月九日にも更級郡布施村宝昌寺で信濃支部大会を開催した。来会者は約三百人、中央から総理板垣退助、杉田定一らが出席した。大会では自由主義を守り、憲政の完成をはかること、現内閣の非立憲的行動を否認し更迭(こうてつ)すること、第一一議会では現内閣および政府党に対し反対運動をすることの三点を決議した。
第一一議会では、自由・進歩両党とともに実業同志会も政府反対の立場をとり、第一区選出の小坂善之助も松方首相を訪問、首相に辞職を勧告したという。その年の十二月松方内閣は衆議院を解散し、翌年三月第五回総選挙がおこなわれた。総選挙を前にしての第一区の情勢は『信毎』が、「第一区は前代議士小坂善之助氏の独舞台(ひとりぶたい)なり」「全国中こんな楽な選挙区は無かるべし、或いは自由党より宮下一清氏などというもの有れども、宮下氏は左様なる扇動に乗りて無謀の戦いを始むるが如き馬鹿者に非ず。されば当区は小坂氏の打って出づる以上は、同氏の再選保険付きと申すべし」と報じているように、実業同志会が圧倒的に強く、小坂氏の再選は間違いないというのが大方の見方であった。
しかし、この選挙では今まで絶大な強さを誇った信濃実業同志会も大きく動揺することとなった。同志会は今までの選挙で議席を独占してきたが、いずれも上水内郡の出身者であったため、更級郡から不満の声があがったのである。上水内郡出身の独占に対し、更級郡からは「今回の選挙は勿論小坂氏を推すの外なからん。然るに更級には更級の事情と感情と有り、初期以来議員を上水内より出して更級より一回も出さずと有りては、一致の投票を為さしむる上に於いて困難を感ずること有り。付いては今回は小坂氏を推すに付き、次回は更級に譲らん」との申し出があった。これに対し小坂は「予に向かって条件付きの候補者たれというに至っては、人を知らざるの甚しきものにて、予はかくの如きことを為してまでも、代議士になりたいとは思わざる」との考えを表明した。一月二十三日、長野の城山館で、小島相陽・前島元助・矢島浦太郎・田島廣太・水品平右衛門の五氏の名で大会を開き、ことの収拾をはかったが、大会はあくまで小坂氏推薦の結論を出した。この大会の翌日、小坂の擁立に反対する小島・田島の両氏は更級郡から候補を出すため、同郡の自由党と接触、篠ノ井の林家で会合をもち、二十九日宝昌寺において自由党の後援で飯島正治候補者推薦の大会を開いた。このとき、小坂氏擁立に反対の同志会のものたちは新たに更水(こうすい)同志会や上水内倶楽部(くらぶ)を組織したのである。この同志会の行動を『信毎』は、「小島・田島二氏の反対、自由党との交渉、小坂氏怒って候補者たることを辞す」と報じている。小坂は更級郡の同志会のこのような行動をみて、候補者となることを断念する意を強く固めたといわれる。二十八日再び長野市の城山館に更水二郡の同志会百余人が参集し、事態を収拾するため会合をもった。席上小坂は、「卑劣な徒と争って諸君に迷惑を掛くるを不本意とする」として候補者となることを断念する意を表明した。そこで矢島浦太郎推薦の声もあがったが、大会は「小坂氏辞任を認め、矢島氏推薦を中止する」との結論を出し、三月五日に信濃同志会からは候補者をあげない旨の広告を『信毎』に出している。このように、今まで絶大な強さをもっていた信濃同志会も、この選挙を前にしていわゆる小坂派と反小坂派に分裂せざるを得ない状況になった。
いっぽう、自由党信濃支部は、この機に乗じ第一区の候補者に飯島正治を立てた。現長野市域に関係する更級郡の真島村・小島田村・笹井村・今里村・東福寺村・川柳村・信里村・塩崎村・西寺尾村・青木島村・更府村・栄村・稲里村の有権者一同は飯島正治推薦の意を表明している。
第五回総選挙は、明治三十一年三月十五日に対抗者なしでおこなわれた。一区の選挙結果は表15のようであり、飯島正治のひとり舞台となった。ところが表のように実際は小坂に投票した有権者が一一三人いたのである。第一区の有権者数は二〇〇〇人余で、そのうち二九六人が棄権をしている。
自由党信濃支部にもこの選挙中、つぎのような動きがあった。ときの第三次伊藤内閣は自由党に協力を求め、同党はこの要請に無条件で応じた。この無条件提携(ていけい)という中央幹部の動きに大いに憤慨したのが更級郡の小林喜曽平であった。小林は「自由党本部は松方内閣と条件付きの提携すら否認しながら、今度伊藤内閣と無条件にて提携せるは余りに勇気なし。信濃支部のこれに盲従するは以ての外というべく、この際速に支部大会を開きて本部に抗議し、もし容れられずんば挙(こぞ)って自由党を脱すべし」と抗議のための支部大会開催を信濃支部に求めたが、支部は選挙中を理由にそれに応じなかった。そのため小林は、自由党に脱党届を出し抗議の姿勢を示したのである。『信毎』は三月「除名の流行」という記事を載せ、県下各地で自由党党員の除名の多いことを報じている。このとき、上水内郡自由党は竹内治作を除名にしている。
明治三十一年八月、第六回総選挙がおこなわれた。現長野市域ではこの間六月ごろ、信濃同志会と更水同志会を統一する動きがみられた。ことの発端は第一区選出の議員飯島正治が、第一二議会で地価改正に賛成の立場をとったこと、そして自由党に接近したことにあった。この総選挙では旧信濃同志会から候補者をあげ、次回の総選挙には旧更水同志会からあげること、新団体名を信濃同志会とし、会長は旧更水同志会から出すとの約束が貴族院議員の山田庄左衛門の肝入(きもい)りで結ばれた。しかし、飯島はこの約束に署名までしながら「予を除名するか、予一人の投票を自由にして欲しい」と反対の意を表し、会から離れることになったのである。飯島がこのような行動にでたのは、中央で自由党と立憲改心党の流れをくむ進歩党が合同して憲政党が組織されたことにあった。
飯島は憲政党からの候補となり、信濃同志会から出た小坂善之助と再び争うことになった。選挙の結果は飯島一一七〇点、小坂七二四点で、選挙戦はいつになく激しいものであった。地域の推薦の広告も『信毎』をにぎやかにした。小坂を推薦した地域には信濃同志会山中西部同志会、長野市の有権者一四〇人、長野市西町南部一同があった。いっぽう飯島を更水同志会、水内倶楽部、更級倶楽部が推薦し、真島村、三輪村の有権者が推した。現長野市域の情勢は長野市を中心とした山中地域は小坂氏を、そのまわりの地域は飯島氏を推すという状況であった。
古牧村・三水村は長野市についで有権者数の多いところで、両派はこの二地域に力を注いだ。また、当時この選挙戦を「明治初年の川中島合戦」にたとえて、更級・上水内の二郡の戦いとし、小坂は候補者の経験と正義論と金力であり、飯島は公権巧用と御用政党風の前代議士と金力であると評されていた。
八月三日、屋代町の生蓮寺で憲政党北信青年会の発会式があった。この会は滝沢儀助・山本徳太郎・小宮山寅之助・白石桃太・斉藤織之助・児島喜之助が発起人となり、「民党ハ合同セリ、是レ藩閥内閣ヲ打破センガ為ナリ、憲政党ハ成レリ、是レ政党内閣ヲ組織センガ為ナリ」との綱領を掲げている。総選挙を前に信濃同志会と更水同志会の統一をはかる動きがみられたが、結果的にはその実現はならなかった。
この総選挙を通じて活発な政党活動がみられたが、選挙後にはまたまた新たな動きが起こってきた。選挙前に生まれた憲政党は、十月再び憲政党(のちの立憲政友会)と憲政本党に分裂をした。この憲政党に接近したのが、小坂善之助を中心とする信濃実業同志会であった。同志会は三十二年三月、長野市城山館で準備委員会を開いている。この委員会は大政党に合流するための、いいかえれば同志会の解散会であったのである。席上小坂は、「社会の機運漸く政党政治の時代に入り、政党に頼るに非ずんば憲政の美果を収むこと難し」と大政党に合流することの必要性を説いた。会は全会一致で憲政党に入ることを決めている。ここに上水内郡で大きな勢力を誇ってきた信濃実業同志会は、名実ともに消滅となった。
明治三十三年九月憲政党は立憲政友会と名称をあらため、十一月には立憲政友会長野支部の結成をみた。発会式は長野市城山館で挙行、会員一五〇人余が参集した。会では北信・南信に支部を置くこと、幹事五人、代議員二人、評議員六〇人を置くことを決めている。現長野市域からは宮下一清が幹事に、小坂善之助・矢島浦太郎・水品平右衛門・前島元助らが評議員に選ばれている。そのなかから、埴科政友会員の組織として埴科政友会倶楽部が三十四年十月に生まれている。また、三十五年段階では上水内倶楽部や長野政友倶楽部、長野政友同志倶楽部が組織されている。
立憲政友会以外の政党活動も、活発な展開をみせた。三十四年三月十日、長野市の千歳座で国民同盟会の政談演説会が聴衆千五百余人を集め盛大に開催された。この演説会は「清(しん)国保全演説会」と称され、ロシアの遼東(りょうとう)半島進出や現今の政治の賄賂(わいろ)や運動について問題にした演説会で、小山久之助・小池平一郎らの演説があった。そして同日の城山館での懇親会には中江篤介(兆民)が出席し、「国民同盟会は政党、政派に関係せず独立のものなり」と演説した。また、三十五年六月には上田町で帝国党北信支部の発会式があった。
明治三十五年八月、第七回総選挙がおこなわれた。この総選挙は選挙法の改正により、①これまでの半数改選をあらため、議会発足以来はじめて四年間の任期満了にともなう選挙であったこと、②選挙権付与の納税資格が一五円から一〇円に切り下げられ有権者が増加したこと、③選挙区が郡部と市部に二分され、長野市が独立の選挙区となったこと、などに大きな特色があった。
立憲政友会は郡部で小坂善之助と宮下一清を立てたが、市部は候補選定が難航した。長野政友同志倶楽部は矢島浦太郎を、長野政友倶楽部は水品平右衛門を候補に立てている。そこで、北信支部が両者のなかに入り候補者の調整をし、同志倶楽部の譲歩で候補者の一本化ができ、水晶の楽勝かにみえた。ところが、選挙期日五日前に山田禎三郎が東京から来て突如立候補を声明したため選挙戦となった。得票結果は水品二七三票、山田一七六票となり、水品が当選した。郡部では小坂・宮下が当選している。過去二回敗戦を喫している小坂にとっては、この選挙はいわば雪辱戦であった。小坂には政友会から上水内・更級・下高井の三郡を地盤とするよう割り当てられた。この三郡には政友会に対抗する憲政本党が有力な候補を立てなかったため、小坂は三郡で独走態勢をとることができた。得票数はおよそ四三〇〇票余で郡部当選者九人のなかでは最高の得票となっている。
桂太郎内閣は海軍拡張のため地租の増徴をつづけることを企てた。政友会・憲政本党がこれに反対したことが引き金となって、議会は解散となり、三十六年三月第八回総選挙がおこなわれた。第七回総選挙からわずか七ヵ月後のことであった。この選挙では宮下一清と小坂善之助が引退したため、政友会北信支部は小出八郎右衛門を候補者とした。幹事会では郡部・市部合わせて五人の候補を立てることを決定したが、候補者確定には紆余曲折(うよきょくせつ)があった。市部は最初長野政友同志倶楽部と長野実業同志会から矢島浦太郎が推薦され、長野政友倶楽部に同意を求めるとともに、北信支部にも公認の請求をした。しかし、政友倶楽部はそれに応じなかった。ところが矢島は同志倶楽部を脱党し政友倶楽部の候補となるという事態になったので、同志倶楽部は鎌原仲次郎を候補者に立てた。『長野県政党史』は「突如として矢島は同志倶楽部を脱し」と記述しており、矢島脱党の理由は明らかでない。北信支部はこの鎌原を公認とし、北信地方の地盤を、石塚重平(埴科、上水内、上高井、下高井の岳北と南佐久)・竜野周一郎(更級、上水内、上高井、下高井岳南と小県)・小出八郎右衛門(更級、埴科、上水内、下水内、下高井)・鎌原仲次郎(長野市)と分けて選挙にのぞんだ。そして郡部では石塚・竜野・小出を当選させることができたが、市部では矢島浦太郎のために苦渋をなめた。全国的にみるとこの選挙では政友会の大勝利となったが、北信政友会にかぎってみると敗北であったといえる。専任幹事の多田恕助は、その責任を問われ辞任に追いこまれた。
この選挙後、長野県の立憲政友会員のなかに政友会改革派と呼ばれるグループが形成された。渡辺国武を中心とする勢力で、この動きが北信支部に大きな影響をあたえた。八月二日の北信支部評議委員会では、政友会北信支部を解散して、信濃社交倶楽部を結成する動きが表面化してきた。会では堀内賢郎が「立憲政友会北信支部を解散し、旧支部員を以て社交倶楽部を組織する」との議事を提案した。この提案に対し県内の政友会の下部組織で賛成するものとしては、埴科倶楽部・更級倶楽部・上高井倶楽部など六倶楽部、反対のものに上水内倶楽部と小県倶楽部、態度未決定なものに長野政友倶楽部・長野政友同志倶楽部など四倶楽部があった。「去就は会員各自の自由意見によるもの、多数決を以て強制し得べきにあらず、新に社交倶楽部を組織するはその創設者に待つべきなり、政友会がイヤとならばその人が政友会を脱するは可なるも解散とは不都合なり、絶対に反対なり」と宮沢長治は上水内倶楽部の決議によって主張し、政友会北信支部の財産を社交倶楽部に移行することについても極力反対の姿勢を崩さなかったが、大勢として解散し、財産は移行するという決定の動きが優勢であった。『信毎』が「上水内、小県、長野市の人々は袂(たもと)を連ねて退席したり、後に残れる十八人にて原案を可決したり」と報じているように、反対派は会を退席、賛成派だけで解散決定をおこなったのである。「社交倶楽部」を「信濃倶楽部」とし、各郡一人の委員を決めた。長野市は鎌原仲次郎、上水内郡は田島廣太、埴科郡は滝沢漸、更級郡は安川保次郎、上高井郡は勝山直久が委員となった。しかし、あくまでも従来の政友会北信支部を維持しようとする長野市・上水内郡・小県郡などの会員は八月五日臨時大会を開き、八月二日の評議委員会の決議を無効とし、組織の維持と拡大を決め政治結社として届けでた。代議員には小坂善之助と飯島正治、幹事には宮沢長治・小島相陽・田島廣太・青木影兵衛・工藤善助がなっている。田島廣太は信濃倶楽部の郡の委員にも名を連ねているが、この臨時大会では開会のあいさつをしており、彼の主張するところは北信支部の維持・存続であったと考えられる。三十七年の第九回総選挙は立憲政友会に分裂がみられ、矢島浦太郎は無所属から立候補している。
明治三十七、八年の日露戦争のさい、各政党は一致して政府の戦争遂行に協力する態勢をとったが、戦後のポーツマス講和条約調印には、九月十八日に長野市城山記念公園で非講和県民大会を開催するなど反対の立場をとっている。また、日露戦争が民衆の生活を破壊するものであったとする批判などを契機に、堺利彦・片山潜(せん)らを中心に社会主義の政党が結成された。