郡制は明治三十二年(一八九九)三月公布の法律で、新しい郡制に変わった。施行は七月からであった。今までの郡制と大きな違いがあったため、今までの郡制は「旧法」、新しい郡制は「新法」といわれる。その大きな改正点は、まず、①郡会議員の選出の複選制と大地主議員制が廃止され、町村民による直接選挙が採用されたこと、②国税納入の制限を選挙権については引き下げ直接国税三円以上のものにあたえるいっぽう、被選挙権が二円以上から五円以上に引き上げられ、被選挙権にはきびしい制限が加えられたこと、である。これにより、町村民の意思が直接郡政に反映されるようになった。それまでの郡制では、町村長や助役が郡会議員となる例はめずらしくなく、なかには県会議員にも選ばれるものもいて、三つの公職を兼任するものすらいたのである。そこで選挙事務にかかわる吏員(りいん)には被選挙権をあたえず、理事者・吏員と議員とをはっきり区別しようとしたのが複選制の廃止であった。これにより、中央の政争が郡会や町村会におよんで地方政治の混乱をきたすようなことはなくなった。議員の任期は六年から四年となり、半期半数の改選はなくなった。また、旧法では郡長が議長をつとめたが、議長は議員による選出へとあらたまった。そして郡会にあった名誉職参事会の知事選任を廃止し、郡会の選出となった。
郡会議員定数は上水内郡は二〇人から三〇人に、更級郡は二六人から三〇人、埴科郡は一九人から二四人、上高井郡は一八人から一七人にあらためられた。現長野市域に関係する町村の選出議員定数と区割りをみると、表16のように旧法と新法では違いのあることがわかる。上水内郡の場合は、議員定数と区割りが明治三十年に変わっている。これは長野町が長野市となり、郡制から離れたためである。それにともない区割りと議員定数も複雑に変化している。大豆島・古牧で一人、朝陽・古里で一人が大豆島・古牧・朝陽で二人となり、古里・吉田で一人となった。そのため吉田・三輪で一人が三輪は単独で一人となった。そのほかの地域は従来どおりである。それが三十二年の新法では吉田・柳原で一人となり、ほかはそれぞれ単独の区割りとなって議員定数はそれぞれ一人になっている。一村一人の議員定数により、今まで以上に地域住民の声が郡政に反映されるようになったのである。更級郡では、旧法は塩崎・川柳で一人、栄・布施で一人、共和・今里で一人、中津・御厨(みくりや)で一人、稲里・笹井・青木島で一人、真島・小島田で一人、東福寺・西寺尾で一人となっている。信田・信級・更府・信里の各村は単独で一人である。それが新法ではそれぞれが単独の区割りとなり、議員定数も一人となった。ただし塩崎村は二人である。埴科郡は旧法・新法ともに各町村が単独の区割りとなっている。旧法ではそれぞれ一人の郡会議員が、新法では松代町が三人、寺尾村が二人となった。上高井郡は現長野市域に関係する村に限っては旧法と新法で変化はない。
郡制改正とともに県下では郡長の大量更迭(こうてつ)もおこなわれ、若手の官僚たちが郡長に抜擢(ばってき)された。このとき上水内郡では青山勝謙、上高井郡では伊藤弥一郎が郡長となった。更級郡と埴科郡は変わらなかった。
新郡制で定められた郡会の権限は旧郡会と大きな違いはなかったが、①法律で定めた以外の使用料や手数料、夫役(ぶやく)・現品などの賦課と徴収に関することと、②金穀(きんこく)の積み立てと処分に関することを決める権利があたえられ、また、③不動産の質入れと書入れに関する権利が除かれ、④郡会議長の議員による互選や、⑤知事選任参事会員の廃止など、郡会の自主権を拡大するなどの面もみられたが、⑥議員の要求による臨時郡会の招集を認めなくしたり、⑦参事会の開会要求も郡長の判断で拒否できるようにする、など郡長の権限を強化した面もみられた。
郡会議員が郡民の直接選挙で選ばれるようになって、選挙権所有者数は大幅に増えた。明治二十四年に対してと明治三十三年の有権者数は表17のようであり、どの郡も一〇倍から一五倍に増えている。また、この時期の郡の主な事業を郡別にみると表18のようである。
明治二十九、三十四、三十九年の現長野市域各郡会の歳出一覧は表19のようである。一〇年のあいだに各郡会ともに事業の充実にともなって財政規模はそれなりに大きくふくらんでいる。二十九年度にはゼロであった衛生および病院費が、三十四年度には上水内郡と上高井郡で登場してくるなど事業が拡大されてきている。各郡会ともに三十年代は勧業費および補助費と教育費および補助費に多くの予算を使っていることから、この時期事業の重点は勧業政策と教育政策にあったといえる。更級・埴科・上高井の三郡会は三十九年の歳出合計が三十四年にくらべ減少傾向をみせている。これは三十七、八年の日露戦争下の緊縮財政の影響がまだつづいているためである。戦争遂行のため、危険箇所以外の土木工事の見合わせ、庁舎や病院・隔離所などの新築改築の見合わせ、教育費のなかの旅費・備品費・消耗品費の削減などきびしい緊縮財政の方針が打ち立てられ、運営せざるをえなかったのである。
「明治三十四年一月ヨリ明治三十九年三月迄ニ通常会ヲ開キシコト六回、臨時会ヲ開キシコト二回、郡参事会ヲ開キシコト六十八回ナリキ」と『上水内郡会沿革史』にあるように、郡参事会が郡政では重要な位置にあった。郡参事会ではこの時期、つぎのような町村民の訴願を処理している。
更級郡更府村の中沢輿重郎は、村会議員の選挙人名簿に自分の名前が登載してないことで、名簿登載の請求を起こした。満二五歳以上で一戸を構え、二年以上同村に居住、村の負担を分担し、地租を納めているので町村制第七条の公民権を有するというのが訴願理由であった。参事会はこれに対し、明治五年生まれで一戸を構え、更府村に居住、二十八年以来地租を納めていること、二十九年以来村の負担を分担していること、したがって訴願人は公民権を有すると判断し、訴願人の公民権を認めた。
上水内郡小田切村の原山虎丈も三十六年八月、郡会議員選挙人名簿に姓名登録のないことで、異議の申し立てをおこなった。三十五年に家督を継ぎ、地租四円六六銭を納めていること、町村制第七条の公民権を有することを根拠に選挙人名簿登録を主張した。参事会は、名簿調製当時に独立している男子であり、村会議員の選挙権を有するという理由で郡会議員の選挙権もあるとの判断をくだしている。
芋井村の三十六年の村会議員選挙では、当選をめぐり当選取り消しの訴訟があり、調査の結果訴願どおりに当選者の当選取り消しと落選者の当選ということになった。三十七年の若槻村の村会議員一級議員の選挙では、金子金右衛門と藤沢茂作が、当時収入役をしていた藤沢兵蔵は被選挙権はないのに当選となっていると、当選取り消しの訴訟を起こした。収入役は有給吏員であるから、町村制第一五条第二項第二号に該当するというのがその訴訟理由であった。有給吏員であっても被選挙権はあり、その職務をやめる以上は当選を無効とすることはできない、ということで訴訟は取り下げとなっている。また、芋井村の伝田惣治郎・常田仙吉・古沢粂太郎の三人は投票用紙の不備をめぐって、村会議員選挙無効の訴訟を起こした。投票用紙が粗薄で記載した被選挙人の名前が外部から見通すことができ、町村制第二二条の規定に反するため、選挙全部の取り消しを求めたものであった。同村の水倉豊治や原山嘉吉もまた同じように、村会議員二級議員の投票用紙の粗薄なため選挙全部の取り消しを求めている。参事会では投票用紙の不備なことを認め、一級・二級ともに村会議員選挙は取り消しであるとの裁決をくだした。真島村でも三十六年に郡会議員選挙のさい、選挙人中に選挙無資格者が含まれていたため選挙無効の訴えを起こしている。これもまた、真島村選挙区での郡会議員選挙は取り消しとなっている。
三輪村の山上英次は、三十九年度の村税賦課のなかに村会議員の実費弁償費がふくまれていたため、その費用の賦課は不当であり、正当の費目のみを賦課してほしいとの要求を参事会に出している。町村制のなかに町村会議員の実費弁償を支払うことの明文はないが、町村の事務に参与する議員に実費を支給するのは、町村制の精神であり、町村の義務であるので、村税として賦課するのは何も不当なことではないとして訴願人の申し立てを却下した。村税賦課をめぐりそれが不当であるとの村民の訴願は小田切村でもみられたが、三輪村同様却下となっている。小田切村の場合、四十一年度の戸数割りは、前年度に比べ二割九分の増額となったため、三〇円余りの減額を要求したのであるが、訴願人の手続き上の遅れから、町村制第一二〇条の規定に反するということで却下となったのである。その規定は村政上の裁決書は公布から一四日以内に訴願書を提出するように定めてあるが、訴願人はその一四日以内を大幅に遅らせて訴願したため、最初から却下という結果になった。
真島村では三十六年度の予算のうち、村会が教育費を予算に計上しようとする村長の提案を否決したため、村長代理玉井直太郎がその否決無効の訴訟を起こしている。この時期真島村では、校舎建築のための費用をどのように捻出(ねんしゅつ)するかが村の最大課題であった。三十五年度に校舎建築のための公債募集と償還方法を議決し、校舎敷地を買い入れた。しかし、建築工事については公債償還にあてる村税賦課方法の調査が不十分であり、寄付金募集も思うようにならないので、一時中断し調査と募集をしてきた。村税賦課方法は確立したが、寄付金募集は目的どおりにならないため、三十六年度の予算に計上した。村会は前年度の不作により民力が低下し、物価騰貴により村民の負担は増大するとの見解から予算計上を否決したのであった。それに対し村長は否決を不服とし、参事会に村会否決を取り消し、再議を求めたのである。参事会は村会の見解をことごとく否決し、村長の提案を認めている。これに対し村会は、村会議長小山寿郎の名をもって「村長ノ提案ハ相当ナリ」とする参事会の裁決を不服とし、県参事会にその取り消しを求めた。県参事会は村会の否決に対し、郡参事会が「公衆ノ利益ヲ害スルモノナリトノ裁決ヲ与エタルハ不当ナリト云ハサルヲ得ス」と判断をして郡参事会の裁決を取り消しとした。
御厨村では、三十六年度の郡費町村分賦額負担金について異議申し立てを起こした。郡農会は独立の組織で町村農会の負担金があり、郡農会へは補助すべきものではなく、その分を引いて分賦額としてほしいというのである。参事会は、本郡は農事をもって生業としているので、郡農会は別組織であるが郡費の補助を受けても違法ではないとして、御厨村の異議申し立てを却下した。これに対し、これを不服として県参事会に裁決取り消しを申し立てた。県参事会も郡参事会と同じように申し立てを却下、そこで行政訴訟を起こし裁判所まで訴えている。裁判所もまた同じように異議申し立てを却下している。御厨村のこの訴訟はその年の五月から翌年の五月まで、一年におよぶ長期的なものとなった。これらは人民の公民権に関すること、郡予算や町村予算に関することに大別することができる。町村民のなかには、この制度を有効に使って町村政のあり方を変えようとする動きがあったが、このような動きは一部の町村に限られ、まだ全般的なものとはなっていなかった。