ロシア・フランス・ドイツによる三国干渉によって、日本は日清戦争で獲得した遼東(りょうとう)半島を放棄した。このとき以来、明治政府はロシアとの戦争は避けられないと考え、軍備の拡張をおこなってきた。
明治三十七年(一九〇四)二月、対ロシア交渉は断絶され、ロシアに宣戦布告がなされた。清につづいてロシアという大国を再び相手にした戦いでもあり、県知事関清英は三月一日、「いつ終わるとの見通しも立たない戦いである。県民は昼夜営業を励み、遊びやむだ使いを慎み、生産をあげるように。軍資の充実のため、全力を副業に向け、貯金を励行するように」と、県民に覚悟と自覚を要望した。
それとともに、県は郡長を通じて市町村長にこまかな指示・注意を出している。主なものは、①国債募集への協力、②そのための財源の工夫、③町村財政の収入である地租附加税を地租の三分の一以内におさえ、その他への課税は不許可、④節約・貯蓄の奨励、⑤徴兵・馬匹(ばひつ)物件の徴発に即応できる体制の整備、⑥応召(おうしょう)軍人家族の慰安と軍人慰問、などであった。③のなかでは、とくに市町村の支出基準まで定め、道橋・堤防以外の土木工事中止、役場庁舎新築見合わせ、小学校校舎に寺院・民家の利用、病院の新築中止、備品・消耗品の節約、補助・奨励費の削除などがもりこまれていた。
長野市の行政は、市長・助役・収入役と市書記一六人・市事務雇八人・名誉職参事会員六人・区長三八人・区長代理三七人によってになわれていた。この人数で通常の市行政に加え、新たに戦争にかかわって、国債応募・召集や徴発事務・兵役優待会や軍人慰問などの軍事事務をもおこなった。とくに、軍事公文書は郡役所や司令官から市町村長へ、そして軍籍者へと、他の文書より優先して扱い、しかもすべて受領書を提出するなど、召集関係は厳重な取り扱いであった。事務量は増えても人員抑制の方針であったため、ともすれば通常の事務への影響も心配された。しかも、明治三十七年五月、県は郡・市長に指示を出して、「必要に応じ、在郷軍人のうち町村長・助役・収入役、兵事事務を主管する市町村書記も徴兵要員とするから、徴兵されても差し支えない職員の人名を調査するように」と命じている。このため市町村の職員は、いつ徴兵にとられるかわからない不安にかられながら行政・軍事事務を進めていった。
このような日露戦争下の長野市の財政をグラフで示すと図3のようになる。市制発足以来順調に伸びてきた財政も、日露戦争が始まると、さきに述べたような県の指導により制約を受けた。明治三十五年を一〇〇としたとき、三十七、三十八年度はそれぞれ九〇、八六の緊縮型になっている。
費目別にみると、衛生関係は日清戦争の反省をもとに、病気の予防・害虫駆除等のために減額されないでいる。また、事務量の増えている役所費もわずかの減額(四〇〇円)ですんでいる。
金額の大きい教育費が主な削減の対象となっていて、三十五年度に対し三十七、三十八年度は二五〇〇円(五・三パーセント)、三七〇〇円(七・九パーセント)の減額となっている。これが学校においては、備品・消耗品の節約や専科教員の不採用(欠員)となってあらわれている。そのうえ校舎建築の中止などのため、三十五年度には、長野高等女学校生徒扣(控)所(ひかえじょ)建築や鍋屋田小学校の敷地購入のための市債一万一〇〇〇円をふくむ合計二万八四四二円あった臨時部の教育費も、継続事業費のみに限定されるようになった。三十八年には、校舎建築の中止指示などのため、臨時部の教育費は「ゼロ」となり、経常部の四万三千余円だけでまかなわなければならなくなった。そのため学校では、営繕費・学用品・教員図書費もこと欠くありさまとなった。経常部の教育費は四十年度には三十五年度並みにもどるが、臨時部は三十五年度の五八・五パーセントにとどまっており、教育面での整備がおくれることになった。
つぎに目立つ大きな減額は土木費である。最低限の修繕費用しか認められないため、三十五年度の三五〇〇円が、三十七年度には臨時部で水害復旧の緊急土木工事のための約四千百円が計上されたものの、経常部歳出では八〇パーセント減の七〇〇円に減額され、四十年度になっても三十五年度の水準には立ち戻れないでいる。
そのほか、金額は少なかったが会議費の落ち込みもはげしかった。これは四十年度には三十五年度並みに戻っている。
これに対して、いちじるしい増加をしているのが、臨時部の公債費である。三十五年度は、旧債の償還一万三四〇〇円をふくむ一万七八五一円であったが、三十八年度には償還額二万七九四〇円などで三万三一一円に、四十年度は二万八一七三円(うち、償還分二万一九〇〇円)となっている。とくに、三十八年度は臨時部の九五パーセントが公債費であった。
いっぽう、これらをまかなう歳入も抑制方針をうけ、三十五年度を一〇〇としたとき、三十七、三十八年度は八六・七、七二・七に落ちこんでいる。その要因は市税の減収にあり、三十五年度よりそれぞれ一万五〇〇〇円(二五パーセント)、一万五六〇〇円(二七パーセント)も減っている。さきに述べた県の指示のあらわれである。その背景には、三十年代に入り、営業税法の施行(三十年)、地租条例・所得税法の改正(ともに三十二年)といった国税の増徴のうえに、日露戦争のための非常特別税法の発布があった。
このため長野市の国税負担総額は、一万七〇〇〇円弱(三十年)、三万四〇〇〇円強(三十五年)から、六万一〇〇〇円強(三十七年)、九万五〇〇〇円強(三十八年)へと急激な増加を示している。
同じねらいから市債の発行も制限されたため、三十五年度には一万五〇〇〇円あったものが、三十八年度には三〇〇円になっている。さらに県の補助削減の方針から、県補助費も三十五年度の一万五九〇〇円が、三十七年度には八一〇〇円にと大幅に減少している。そのうえ、繰越金も三十八~四十年は一〇〇〇円から一五〇円に減少し、財政も硬直化している。第一回の軍事公債に、長野市として応募した二万円は、三十八年の基本繰入金となって出ている。
このように歳入・歳出(臨時部もふくめ)すべてにわたって、長野市の財政は日露戦争への協力体制に組みこまれ、大きな影響を受けた。
日露戦争時の教育費の削減のようすは、上水内郡においても、同様であった。芋井の三三・七パーセントを最高に、ほとんどの村が二〇パーセント以上の削減をしており、小田切の八・一パーセント減は例外的な存在であった。