県は郡・市町村に対して、戦争遂行のための指示・指導をおこなうとともに、県民に対しても協力を働きかけた。それに対して、県民は日清戦争に引きつづいての戦争協力ではあったが、積極的にこたえようとした。
軍事費の調達のためには、軍事公債といわれる国債や国庫債券が国から発行され、その購入協力が求められた。これらは多額の資金が必要であったため、各町村ごとに割り当て額が決められ、各町村はその達成度を競いあうようになった。そのため第一回の募集では、どこの市町村でも目標額を大幅に上まわった。現長野市域の各市町村の例をあげたのが表20である。長野市の第一回の応募は一七四パーセントにものぼったが、内訳は銀行が三一万五〇〇〇円、大勧進が二万一〇〇〇円、市が二万円、残りの一〇万五〇〇〇円が市民であった。その市民も資産家・有力者といわれる家を中心に働きかけがあって応募したが、応募が回を追うにつれ、割り当て額の達成がむずかしくなっている。長野市では二回目以降は割り当て額を下まわり、第三回は四六パーセント、二、四、五回も七〇~六六パーセントにとどまり、日清・日露とつづいた戦争のなかで、資力も乏しくなっているようすがわかる。応募額は、実際に購入した額ではなく、上水内郡の村々の確定額は、申込額(応募額)の三〇~七〇パーセントの村が大部分であった。銀行や資産家の経済状況も、掛け声と中味はかなりの差があったことがうかがえる。
市町村民の多くは、軍資金の献納や恤兵(じゅっぺい)部献金という形で、個々の実情に応じた金銭を差しだした。長野市では、軍資金の献納が二四一一円余、恤兵部献金が九六七六円余にのぼっている。なかには茂菅区のように、恤兵部献金へ区費のなかから七八円余を拠出しているところもあった。金銭だけでなく、出征兵士を慰問する恤兵品も寄せられた。長野市・上水内郡・更級郡の拠出品をまとめると、表21のようになる。寒さを心配して寄せられた毛布・真綿(まわた)、故郷の人びとの支援を感じさせる梅干し・みそ・梅肉エキスなどの食品、励ましの便りの交換に役立つ書簡箋(せん)・封筒・はがき類が中心であった。
絵はがきのなかには、政府が軍の健闘ぶりを広めるとともに国民の戦意を高揚するために売りだした、旅順(りょじゅん)・遼陽(りょうよう)など、一種類(三枚組)六銭のものもふくまれていた。書簡箋には、『長野新聞』が募集した「恤兵品絵画書簡箋寄贈」に協力した古牧尋常高等小学校の一〇〇〇枚(尋常科一人一枚、高等科一人五枚以内、職員応分金額で一五円)や石堂町の私立信濃裁縫女学校の一二〇〇枚(生徒・職員が休み時間や夜間に軍人用のシャツ・洋服等を制作した賃金から拠出)などもふくまれていた。このような戦争への協力は、新聞が連日協力者や献納金品を掲載して、雰囲気を高める役を果たしていた。
日清戦争前後に結成された「兵役優待会」も活動が活発になった。『長野新聞』は明治三十八年(一九〇五)二月十七日付けで、保科村兵役優待会は、臨時召集の兵員に餞別(せんべつ)を贈るため、三〇〇円を拠出している。ほかに各集落でも、地区内から出発する兵士にいくらかの餞別を贈ることになったと報じている。
一般県民ばかりでなく、寺社においても、日清戦争のときと同様に「戦勝祈祷会(きとうえ)」を開いている。『長野新聞』は、綿内村如法寺では曹洞宗寺院組寺が合同で二月十六日午前七時から戦勝祈祷会を開き、吉田村天周院では二月二十八日戦勝祈祷大般若経転読会(てんどくえ)をおこない、軍資金調達演説会も開き、有志のお金を献納すると報じている。
戦況は、新聞報道により日本軍の勝利が大きく伝えられたので、大きな勝利のあとは、祝勝会や提灯(ちょうちん)行列がおこなわれた。明治三十八年三月十日の奉天占領を祝う長野市の祝勝会は、三月十四日午後一時から二千余人を集めて、城山運動場で開かれた。この会では、大会名で大本営や満州軍総司令部へ祝電・祝辞を送っている。式後、記念公園で祝宴を催し、出征兵士をたたえ、戦勝国民としての誇りをもって散会したと報じられている。当日の市内は、式場や招魂社前は万国旗を山形に張り広げ、市中では国旗や球灯を掲げて祝意をあらわした。ことに、大門・後町・新田・石堂の各町では、大国旗を町の中央に交差し、見事なながめであった。夜になると各町では、思い思いの提灯行列で市中を練り歩いたり、招魂社へお参りして戦死者の霊を弔(とむら)ったりして、夜中まで非常ににぎわった。
五月二十七、二十八日の日本海海戦の勝利が伝わると、松代町では六月一日夜提灯行列をおこなった。竿頭(かんとう)高く球灯点火したものなど二千有余人が松代小学校前に集まり、「祝日本海大海戦大勝利」の大灯籠(とうろう)を先頭に字町ごとに整列し、町内をくまなく練り歩いた。近在からも見物客が押し寄せ、立錐(りっすい)の余地もないほどの混雑になった。一巡後、真田家門前で矢沢町長のあいさつがあって、散会したのは一〇時ごろであった。行列のなかで目立ったのは紺屋町の「捕獲艦(ほかくかん)ニコライ一世」の山車(だし)、荒神町の「囃(はや)し山車」だったと『長野新聞』は報じている。
兵士が帰還すると、「凱旋(がいせん)兵士歓迎会」が開かれた。茂菅地区では、音楽隊を先頭に長野停車場(駅)に出迎え、区まで同行し、村社社前の歓迎式で記念杯を贈って感謝の気持ちをあらわし、この間煙火(はなび)を打ち上げて式を盛り立てている。
戦利品展覧会は、明治三十八年九月十一日から十三日まで松代町で開かれ、初日五千七百余人、二日目六千二百余人、三日目七千余人が押しかける盛況であった。戦争活動写真も千歳座で、三十八年六月八日から十一日まで、おとな一〇銭・こども六銭の入場料でひらかれ、にぎわいをみせた。
戦後は、小学校で尚武心をはぐくむ目的で、県庁を経由して陸軍大臣あてに願書を出すと、銃器の払い下げが受けられた。
戦死した出征兵士の葬儀は、兵役優待会が規定によりとりおこなった。長沼村では、三十七年十一月十七日に善道寺を会場として、土屋・木戸・中沢・西沢の四兵士の葬儀を、西厳(さいごん)寺など三僧の導師のもとにおこなった。柩(ひつぎ)四個二四円、高張り四対・花輪四対六円四〇銭、新聞広告料三円四四銭、導師礼八円、式場飾り付け七円九四銭一厘、弁当六円九八銭四厘など、総計九〇円九一銭五厘かかった。これらのうち、六円二七銭九厘を棺(ひつぎ)割り、八四円六三銭六厘を三つの区で割り、大町が四〇円六八銭五厘、穂保(ほやす)と赤沼がそれぞれ二五円一一銭五厘ずつ負担している。
戦争のため、県民の日常生活にも節約が奨励され、変化がみられるようになった。一つは、旅行者や輸送物資の減少にみられた。三十三年八月には信越線長野-上野間に夜行列車が一往復走るようになり、十一月には篠ノ井線篠ノ井-西条側の開通もあって、乗降客数は三十年代のピークに達した。その後三十一、二万人台で推移していたが、戦争中の三十七、八年度は乗車・降車人員ともに数万人の減少となっている。講和後の三十九年度はその反動で急激な増加をみせるが、四十年度には落ちついた数字となった。取り扱い貨物量においても、三十七、八年度は発送貨物で三〇〇〇トン、到着貨物では七、八千トンの減少を示し、戦争が終わると戦争前の状態にもどった。二つめは、娯楽抑制の影響が清酒の生産石数にあらわれている。三十七、八年度は二一〇〇~二四〇〇石で、これは三十年代の最低石数であった。
ロシアとの講和条約によって戦争の終わりを告げようとしたとき、講和条約の内容に不満をもつものも少なくなかった。連戦連勝と知らされてきた県民のなかには、講和内容に反対して「非講和県民大会」を九月十七日に城山記念公園で開いたものもいた。『信毎』によると、かつてない大勝利を得た戦争なのに、講和内容は屈辱(くつじょく)的な内容であって憤慨(ふんがい)にたえないとして、講和条約拒否を満場異議なく認め、枢密(すうみつ)院顧問と桂首相あてに決議文を送ることを採択した。天皇に対する上奏文の草案も用意したが、恐れ多いとして各郡から実行委員をあげて決定することにした。長野警察署は管内の駐在巡査を招集して警戒にあたったが、会場は終始厳粛(げんしゅく)であった。
日露戦争では、戦争協力ばかりでなく戦争批判もおこなわれた。松本町出身の木下尚江(なおえ)は、三十七年七月小諸町・上田町につづいて、二十六日夜権堂町の千歳座で政談演説会を開いた。集まった六〇〇人ほどを前に、立川雲平(たつかわうんぺい)につづいて木下は社会主義者の戦争観を述べている。そして翌二十七日には、地元青年によって計画された社会主義研究会にも出席した。