日露戦争に出陣した陸軍兵士一〇九万人のうち、戦死者は八万人もあった。銃弾が連発される機関銃や野戦砲などの重火力の使用が進み、日清戦争に比べ激しい兵力・兵器の消耗戦となった。
明治三十七年(一九〇四)八月末からの遼陽(りょうよう)会戦、五ヵ月余りかかった旅順要塞攻撃は激しい戦いとなった。中津村(川中島町)出身の陸軍砲兵上等兵塚田君治は、戦闘のようすを「征露日記」として残している。三十七年九月二十日、二十一日の二百三高地争奪戦の第一回目のようすを、つぎのように記している。
九月二十日 快晴 未明より射撃開始。終日攻撃いたせしも占領すること能(あた)わず。勇軍歩兵は突撃開始するも、登土傾斜急なる山ゆえ、また敵すこぶる強く、また鉄条網も多数あり堅固にて登ること能わず。ゆえに南側の鞍部(あんぶ)につきて歩兵は一夜を明かしたり。
九月二十一日 快晴 未明より歩兵は突撃開始す。わが中隊と海軍砲はわが歩兵の援護のため敵の歩兵に射撃を加え猛烈に戦争するに、敵前夜中に二百三高地の南方老鉄山の麓(ふもと)に砲兵陣地をかまえ、老鉄山に相方より勇軍の歩兵に向かい、背後より猛烈に砲撃を加えしゆえに、勇軍の歩兵も前進すること能わず。やむをえず退却す。ゆえにわが砲も射撃中止す。
日露両軍とも激しい戦いのなかで死傷する兵士が多かった。現長野市域にかかわる市・村・郡の従軍者・戦死者・戦病死者数は表22のようである。松代・若穂地区の実態はつかめないが、およそ三〇〇〇人が従軍していると推定される。表22からは、長野市および郡の中心となっている村やその周辺の村々の従軍者が多い。そのほか、山間部や農村部の村々でも、従軍者数の多い村々もみられる。『県史近代』⑦によると、県下の戦死戦病死者は従軍者数の八パーセントと計算しているが、それに比べると、浅川の一九パーセントを最高に青木島・芹田・芋井・信里が一四パーセント、朝陽・七二会・更府・御厨(みくりや)が一三パーセント、長沼・信田・真島・中津・三輪・川柳も一〇パーセントを超えている。三四市村のうち戦死戦病死率一〇パーセント以上は一五ヵ村にもおよび、戦場で命を失う兵士の多かったことがわかる。
政府は兵力確保のため徴兵令の改正をし、兵役年限を延長したので、農村から働き手が動員されるようになった。『信毎』は、古牧村東和田では二四歳の弟のほかに三〇歳の戸主にまで出征命令が出たため、四人家族の家には実母と戸主の妻だけが残されることになった。戸主は、「小作には手を広げないで、二人で耕作できる程度の農業生産をするように」と伝えたと報じている。このように一戸から二人出征しているようすは表23の応召者の戸数と人数の差からもうかがえ、兵役への動員の必要性が高まっているようすがわかる。開戦初期の段階で、すでに塩崎村でも複数の兵士を送り出している家があった。働き手を兵士として送り出した家では、農業生産にも支障が出て、救助を受けなければならない家が出始めており、一戸が労力援助を受けている。
生活維持のため現金の給与を受けた戸数は、労力救助を受けた戸数よりはるかに多くなっている。塩崎村では従軍者数が多かったこともあり、更級郡二六戸中の六戸を占めている。それらの救助を受けてもなお、生活が困難な家が、この時期に郡部には多く存在していた。それらのほかに、救助を要する戸数は、すでに援助を受けた戸数と同程度に長野・上水内にあり、他は数倍におよんでいた。戦争はとくに従軍者家庭の生活を圧迫し、大きな痛手をあたえていたのであった。
このようなことから、長野市会では三十七年一月、出征軍人家族の無料治療を認めている。長野市住民で従軍している軍人の家族が病気にかかったときは、請求により市立長野病院で無料で治療を受けることができるというものであった。同年十二月には応召軍人に後顧のうれいをなくするために、その子女で市立小学校在学児童の授業料を免除することも、市会で決められている(『二十年間の長野市』)。
兵士の動員ばかりでなく、農耕馬・一人引き荷車や軍用大麦の徴発もたびたびおこなわれた。馬の徴発は日露戦争中七回あり、それぞれ指定された場所で馬の徴発検査を受けた。長野市では出頭した六一頭中一〇頭が合格、上水内郡に属した村々からは二五七頭が出頭し二九頭が合格し、一頭につき六五~七〇円が支払われた。上水内郡では、七二会村の二〇頭が目立ち、ほかは若槻・小田切・芹田・古牧・安茂里の各村が三~一頭であった。更級郡に属した村々からは三四九頭が出頭し一九三頭が合格した。ここでは、信田村の六九頭、更府村の四九頭、信里村の二七頭、東福寺の一二頭が多いところで、中津・今里・西寺尾の三ヵ村を除いた各村からは一~二頭の合格馬を出している。
一人引き荷車は、長野市が出場八九二両中合格は六二両、市域の上水内郡が出場七六二両中合格は四八両であった。合格は甲乙丙の三ランクがつけられ、それぞれ一三円五〇銭、一二円、一〇円五〇銭が支払われた。
軍用大麦は、全村から買い上げられた。長野市では約三千五百石(約六百三十キロリットル)で約二万五千円、古牧村が約二千五百石(約四百五十キロリットル)で約一万八千円、塩崎村が約二千三百石(約四百十四キロリットル、代価不詳)、芹田村が約一千五百石(約二百七十キロリットル)で約一万一千円というのが代表的なところである。
このように、兵力確保のための人的動員が大きかったところへ、畜力等の徴発も重なった。そのため篠ノ井の西山地区や七二会地区などは、人員と大量の優良畜力の徴発により、農業生産ひいては人びとの生活への影響は避けられなかった。
そのほか荷車や大麦の徴発は、一時的に代価は支払われても、日常生活上有用なものが、質のよいものから徴発されたため、日常生活の苦労へとつながり、それに耐える生活へとつながるものであった。