明治三十年代の現長野市域の警察は、二十年代末の配置が継続されて管轄されていった。このうち、長野警察署では明治三十一年(一八九八)、巡査派出所が三ヵ所新設されることになり、四月から桜枝町、裏権堂、新町に置かれるようになった。その後は巡査受持区画がたびたび改正され、派出所や駐在所が増設されている。さらに、三十四年九月には、年々増加する事務のため警察庁舎が狭くなったとして、大本願邸の南端に沿い大門町に面していた長野町五番地(元善町官有地)から、若松町の大字長野一二〇八の一番地(旧市庁舎に隣接)に新庁舎を新築して移転した。新庁舎は総建坪二〇二・七五坪(六七〇・二五平方メートル)あり、この建築には九八六一円九〇銭の費用がかかっている。その後、三十七年六月には六坪の物置一棟の増築がおこなわれている。
明治三十一年、巡査勤務規程・派出所巡査勤務に関する細則基準が出され、巡査のこまかい活動の回数や時間などが定められた。これによって、警察官の警邏(けいら)活動を一ヵ月一五回以上とし、夜間の警邏活動を指定する制度を設けた。
三十三年三月には治安警察法が制定され、高等警察の活動が広く人びとの生活のなかまで掌握するものとなった。この法律は政治に関する、①結社・集会の届け出、②学生生徒・女子の結社への加入禁止、③屋外集会・運動の群衆の制限・解散・退去命令・禁止、④労働運動・農民運動・社会主義運動などへの制限と抑圧、の内容をふくんでおり、治安維持的性格のものであった。この法律によって安寧秩序(あんねいちつじょ)の維持という名目で、集会には警察官が臨監(りんかん)し、発言のなかで犯罪を扇動(せんどう)したり犯罪人を救護するなど、秩序を乱したり風俗を害したりするおそれがあると認めたときは、弁士に注意をあたえたり講演や論議の中止を命じることができるようになった。県下では、小作人の団結は弱く組織化された労働組合もなく散発的に争議があった程度で、この法律の発動を受けることはなかった。この法律の存在や同年の行政執行法施行令による仮領置などの予防検束などが、争議の発生をおさえる働きをしていたとの見方もある。こうしたなかで、県下でも二〇回から九〇回前後だった政談会は、三十五年には二〇〇、三十六年には一〇〇回を超えるほどに増えていくが、警察官の臨監の度合いも増え、二五から六〇パーセント程度から三十五、六年には七〇から八〇パーセントに達している。
三十七年十二月には、戸口調査の目的・心構え、視察の重点、戸口調査簿の取り扱いなどについて指示が出されている。それによると、現住者の性行・移動・職業・生計の状況等をつまびらかにしその動静を知得することを目的とし、温和・丁寧に家人に煩(わずら)わしさを感じさせないことに心掛けて実効をあげるようにとしている。視察の重点は結婚・相続等の異動のほか、資産、既往の経歴、集会の目的などにもおよんでいた。こうした戸口調査により、三十年代に広がりはじめた社会主義運動も内偵が進められていった。長野市では『平民新聞』への投稿によって中央にも知られていた丸茂天霊(まるもてんれい)らを中心に、三十七年八月「黒潮会」が結成され、雑誌の購読などによる社会主義理論の研究が進められた。県下ではやがて、言動観察の内偵によって、四十三年の幸徳秋水(こうとくしゅうすい)事件の端緒をつかんだ屋代警察署長・松本警察署巡査ら三人が、その功績により内務大臣から全国初の「功労記章」を授与されている。
三十年代の裁判所は、長野市に長野地方裁判所が置かれ、上田・松本・飯田の各支部とともに訴訟を扱っていた。三十六年には地方裁判所支部の統廃合がおこなわれ、上田支部が廃止となった。そのため小県(ちいさがた)・埴科(はにしな)など関係五郡の全町村長が連合で「上田支部復旧開始を希望する請願書」を司法大臣に提出するほど、関係住民の運動が大きく広がった。
この時期、長野市に本籍をもつものの受刑のようすをまとめたのが表24・25である。それを罪名でみると、窃盗・横領や賭博(とばく)が多い。罰金刑は大部分は一〇円以下の事件で、この時期は質屋や古物商の違反と、相変わらずつづく徴兵令違反が特徴的である。
囚人を収容する長野県監獄署および同上田・松本・飯田各支署を管理する県では、監獄費が歳出中の大きな負担となっていた。そのため、監獄費を国庫で支弁すべきであるという主張が、県会や新聞紙上でしだいに高まっていた。三十年十二月の通常県会では、本来国家の仕事であり国家財政の危機を切り抜けるためという理由も存在しないし、長野県の監獄費の割合は他県より高いなどの理由から「監獄費国家支弁ト為スノ建議書案」が提出され、わずかの差ではあったが可決された。三十二年の監獄の収容人員は一六一〇人あり、職員三百数十人の人件費(囚人が少ないときは職員を自宅待機させ、給与の三分の一だけ支給することもあった)や囚人にかかる食料費・被服費などの監獄費と修繕費・建築費を合わせると長野県の歳出中の五・八パーセントを占めていた。翌三十三年十月に県監獄関係費の国庫支弁が実施されることになり、総額二三万七〇〇〇円弱の予算が七万七〇〇〇円弱に更正されている。やがて三十六年三月の地方官官制改正により長野県監獄は廃止され、司法省の管轄に移されて長野監獄と同上田・松本・飯田各支監と改称された。移管後は収容する囚人の定員を定め、それを超えた囚人は定員を満たさない監獄へ移すようになった。長野監獄は新潟県高田地方をも管轄区域にふくみ、大正十一年(一九二二)に長野刑務所と改称されるまでつづいている。
囚人に対する教誨(きょうかい)・教育活動は、浄土真宗の僧侶たちを中心におこなわれ、二十八年五月からは正式に教誨師が任命されるようになった。三十六年の国への移管後は、幼年囚に対する教育が本監・支監を巡回しておこなわれるようになった。いわゆる「非行少年」に対しては、長野監獄と各支署(支監)で、改心させるという考え方による懲治(ちょうじ)対策がつづいた。家族主義の教護は、四十一年の刑法改正後、四十三年四月の県立海津学舎が西条村(松代町)に発足するのを待たねばならなかった。
出獄人の保護については、司法関係者らのあいだで組織づくりの動きはあったが、設立にはいたらなかった。民間では三十四年七月に仏教関係者が共同で福田会を組織して、出獄人保護事業に乗りだしたが、財政的基盤が弱く四十一年には解散している。
明治二十一年の陸軍管区制定勅令により設置された長野大隊区は、二十九年三月には勅令により長野連隊区となり、長野市に司令部を置き長野県下一円を統轄した。このような動きのなかで、上水内郡長野町、三輪・古牧・安茂里・芹田村の五ヵ町村は、長野町長中村兵左衛門を総代とする七〇人の連名で、県知事高崎親章(ちかあき)を経由して陸軍大臣大山巌あてに、兵営設置の願書を提出している。願書のなかで長野の適地性として、①貧富を問わず、尚武精神が発揮されており軍人を身近に感じている、②長野は本州の脊髄にあたる地で、鉄道の便・気候・風俗のうえからも軍人養成に適しているなどと述べている。設置されれば、敷地と付帯施設については、相当の寄付をしあるいは斡旋(あっせん)の労をとりたい、とも述べている。これに対して、東筑摩町村長会は、三十四年九月松本への兵営設置を求めて、敷地二万一四坪を総額六一六四円余(坪三〇・八銭余)で買い上げて献納することを取り決めている。
日露戦争の拡大のなかで、三十八年四月には兵力補充のため師団が増設されることになった。新潟県高田町を本拠地とする第一三師団歩兵第二五旅団に属する歩兵第五〇連隊もこのとき創設された。樺太(からふと)・台湾・朝鮮半島を転戦していた部隊であった。衛戍地(えいじゅち)(陸軍の軍隊がとどまる土地)は未定であったが、四十年三月四万坪の土地と病院・射撃場などを寄付し、五万五〇〇〇円の負担をした松本町に連隊の設置が決定した。十月には長野連隊区司令部も廃止され、長野市域の誘致運動も幕を閉じることとなった。