明治の初めころの農家の生活は、狭い居宅で畳を敷くこともまれであった。しかし、明治四十年(一九〇七)ころになると家屋の建築は養蚕の必要上、だんだん大きくなり、それに応じて庭園なども設けるようになった。平素、茶菓子、砂糖を用い、魚類などが食卓にのぼるようになった。冠婚葬祭などのふるまいもぜいたくになり、衣類には絹物も目だった。家計費がふくらむにつれ、養蚕不作の年には不景気との嘆きが聞かれた。明治二十年ごろには中流農家の家計支出は、およそ一五〇円ぐらいであったが、二〇年後には五〇〇円以上にのぼり、公課、雇い人賃料、肥料などにその大部分を支出していた。しかも生計費が高騰しているため、養蚕の作柄により農家の発展・没落は激しくなった。
明治十年代後半の不況を脱して二十年ごろから養蚕業はしだいに順調となり、畑に桑を植え、山野の開墾によって桑園を拡大し、その発展をになった。表26によれば、埴科郡豊栄村では一〇年間に桑園が三二パーセント増えている。飼育戸数と掃立枚数は三十六年の大霜害によって一時頓挫(とんざ)したが、三十九年からの掃立枚数の増加が収繭量の増加になっている。しかし、一枚当たり収繭量をみると、三十六年が九斗六升(一七三リットル)であるほかは、六斗台から七斗台のあいだを増減しており、必ずしもいちじるしい発展はみせていない。ただし、飼育技術は改良され、繭の収穫にいたらない違蚕はほとんどなくなった。表27は養蚕業の発展につれて、一般畑作物の停滞ないし衰退するようすをみたものである。麦類について長野市以外の田の裏作は増えているが、畑作麦やあわ・大豆などの雑穀、菜種、綿は大きく後退している。
このような養蚕業の発展につれて、豊栄村では明治二十年ごろまで残っていた綿作はなくなり、同村で同年ごろに一一〇頭飼育されていた馬はその後の二〇年間に半減してしまった。肥料はおもに草木あるいは堆肥(たいひ)などを用いていたが、しだいに緑肥、堆肥など自給肥料は減少し、かわって購入肥料(金肥)が多くなった。他の農作物の耕作は粗略となり、もっぱら金肥に頼る農業体質となっていった。また、稲作の田植え時期が昔より一週間ぐらい遅れるようになり、そのことによる間接的損害もあると考えられていた。
豊栄村の桑の種類としては、総反別一二四町歩(約百二十三ヘクタール)余のうちで、四ツ目(中生)七一町歩、御林(早生)三八町歩、魯桑(ろそう)実生(早生)六町歩でほとんどを占めている。桑の仕立て方法は根刈仕立てがほとんどであった。ただし、松代町では桑の栽培状況は農村部と異なって、つぎのようであった。
大里忠一郎は明治十七年ごろから二十二、三年にかけて、東京から魯桑の桑苗を持参し同町の二ヵ所に魯桑園を開いて模範を示した。そのいっぽうで、町内各戸に一本ずつの苗を配って植えさせた。そのため同町と西条村には魯桑が目だち、なかには幹の太さが二尺(約六十センチメートル)から三尺のものもあった。太さ二尺、高さ二丈(約六メートル)の立ち木四本から得られる桑葉代金は三〇円ほどになる。松代町の苗木店で調査したところ、明治三十九年十一月中に同店の販売した桑苗一一万本のうち、鼠返(ねずみがえし)八〇〇本のほかはことごとく魯桑苗と同実生苗という。松代町製糸家の話によれば魯桑の葉で飼育した蚕の繭はたいへん質がよいといわれた。
桑の改良品種はどんどん普及していったが、春の遅霜(おそじも)には弱かった。明治三十一年五月十六日早朝の霜害は、川中島平では薄い氷がはるほどであり、桑のみでなく菜種、大麦にも被害があった。松代町では桑は宅地に栽培するものが多かったため、被害は他村に比べると軽かった。平坦(へいたん)地とくぼ地の被害が大きく桑の樹幹までも損傷をうけ、青色の部分は黒焦げとなってしまったが、山腹・山麓(さんろく)傾斜地は被害が少なかった。すでに蚕児が発生しており、早いものは二眠起齢に達したものもあり、養蚕家のなかには蚕児を捨てるものがあった。
前日の五月十五日、午後八時一〇分に各郡役所にはすでに霜害注意電報が入っていた。長野町城山に設置された長野一等測候所は明治二十二年一月から観測を始め、二十四年一月から県内各郡役所、長野警察署、長野町役場、県庁、信濃毎日新聞社に転報していた。
三十八年十月十四日、長野測候所は十月中の霜害を懸念し、松代勧業協会付属松代気象観測所に結霜予報を発令すべき旨を通達した。そこで本会事務所構内に規定の信号標を表示するので、それが出されたら村内一般へ通報してほしいと、各役場へ依頼している。このように養蚕地帯の長野県では晴雨だけではなく、霜害予防のためにも天気予報の必要性は高かった。