北信の果実は現在りんごに代表されるが、明治三十九年(一九〇六)の各果実について、上水内・更級・埴科・上高井の各郡と長野市の生産高を合計してみると、生食用と考えられる桃四万貫(約百五十トン)、柿三〇万貫を除いても、りんごはなしの一一万貫をはるかに下回る四万四〇〇〇貫にすぎなかった。
現長野市域のりんご栽培は明治八、九年に更級郡真島村で、十二年には上水内郡往生地村・三輪村で、十八年ごろ更級郡共和村・川柳村で始まっている。たび重なる降霜や河川の氾濫(はんらん)により桑の被害をこうむった農家のうちで、りんご栽培に切りかえるものが地域的に出てきたが、いずれも二十年までは試みの段階であり、それ以後、善光寺参詣客相手に往生地のりんごが売られるなど、商品化が進んだ。
明治十二年、更級郡真島村戸長中澤治五右衛門は長野県勧業課からりんご(苹果(へいか))苗木を分けてもらい、庭に栽培した。さらに十七年秋、横浜で唐苹果苗木三〇本、なし苗木二本を買い求め、翌春植えつけした。二十九年五月には字古屋敷に二〇〇本の植えつけをし、古屋敷苹果園と名づけた。三十七年には自宅の西側の田と宅地に苗木の植えつけをし、栽培の拡大をはかった。品種は紅魁(べにさきがけ)、祝(いわい)、紅玉(こうぎょく)、国光(こっこう)、柳玉であった。三十七年になると、りんごの販売額は一一六円に、三十八年には一八五円(一貫目=三・七五キログラム当たり五〇銭)にのぼるほどになった。さらに四十一年の豊作時には、一反歩当たり倭錦(やまとにしき)で一〇〇〇貫の収量があった。このころ埼玉県から柿とりんごの苗木を買い入れて、同志者に分けあたえた。四十一年長野市城山で開かれた一府十県連合共進会に出品したりんごは一等賞となり、金牌(きんぱい)を受賞した。しかし、いっぽうで台風には泣かされ、一度に一〇〇貫(明治三十七年九月)や二二〇貫(同四十四年八月)もの落果被害をこうむった。
明治四十四年になって、綿虫のいない上水内郡神郷(かみさと)村(豊野町)の借地にりんご苗木一万本を、その二年後に埴科郡大室(おおむろ)村の山畑に六〇〇〇本を植えた。
りんごの木は綿虫の害をこうむり、従来の方法によって駆除予防してきたが、全滅させることはできず困難をきわめていた。りんごの栽培者は年々多くなり、真島村のうちでも四十年の植えつけは二〇〇〇本におよぶほど盛況となったので、このさいに綿虫を全滅させておかないとますます広がり、その害ははかりしれない。そこで岡山県農事試験場長に頼んで同県の小松長三郎より薫蒸(くんじょう)袋を買い求めたが、薬の青酸カリや硫酸の使用にあたってその濃度も薫蒸時間もわからなかった。長野県内のその道の教師に尋ねたが、学説としては知っていたものの実施したことはなく、たいへん迷惑がられた。思いあまって中澤源七郎(治五右衛門次男)は四十一年二月、大山綱昌知事に専門家を派遣してほしい旨の申請書を出している。
防除に関しては、試験場も十分な知識を持ち合わせていなかったようで、たとえば、黒点病について中澤は長野県農事試験場から委嘱をうけておこなった国光の試験結果を四十三年に明らかにしている。同年八月には県知事が中澤家りんご園に出向いて二年目の試験状況を視察している。
明治三十年代なかばになると、県としても果樹栽培に強い関心を示すようになった。三十年に長野県農事試験場が芹田村若里に設置されたあと、三十五年には国道より試験場本館までの両側を果樹試験地とし、桃、なし、りんご、ぶどうなどの各品種を栽植した。四十三年になると果樹の貯蔵試験をおこなった。
また、町村段階の対応もしだいに具体的になってきた。明治四十年二月、更級郡町村農会長協議会が開かれたさい、「指示及び協議事項」として果樹栽培の奨励が取りあげられた。「社会の進歩は国民生活の向上を促し、果実類の需要を高めるので、その栽培は農家にとって将来もっとも有利なものの一つになるはずである。したがって郡農会としても来年度の事業として果樹苗木を下げ渡す用意がある。りんご、あんず、柿、なしなどのうち種類を選んで栽培を奨励する」、としている。
真島村農会の農産物品評会(真島尋常高等小学校新築校舎にて)の審査例規(明治三十七年一月)をみると、りんごの審査基準がのっている。それによれば、品質については各種固有の性質をもって肉と皮がともにやわらかで汁が多く、内容および外皮は食用に適しない部分が少なく、佳美なものに満三〇点をつけ、以下減点法をとっている。またそのときの審査報告には、「出品の種類はすべて金時であり、色沢(しきたく)形状の斉一なものが少なく、貯蔵は概して不良、外皮に暗黒色の斑点(はんてん)を生じ腐敗部分もあった。更級郡の風土はりんご栽培に適しているので、肥培貯蔵などに注意すれば利益は決して少なくない」、と記されている。同郡では本格的な栽培がおこなわれていたとみることができる。
長沼村赤沼では、村の東側に接する千曲川が明治四十二、四十三年に大水害をもたらし、四齢まで飼育した蚕も犠牲となった。養蚕業が発展するなかで、いくどとなくこうした被害をこうむった赤沼では、これに先立つ一〇年ほど前、蚕種商高見澤源太郎が各地へ蚕種販売に歩いていたが、ある日、りんごの苗木を入手してきた。また、同地区の小林伝之助も、東京からりんご苗木倭錦を取り寄せて植えた。かれらを先駆者として河川敷にりんご畑ができあがった。こうして桑園から水害に強いりんご畑に切りかえられ、地域も赤沼から南部の穂保にかけて広がっていった。栽培者はいずれも経営規模の大きい農家であり、知識不足のなかで慣れない作業にも前向きに取り組めたのは、それなりの経済的ゆとりがあったためである。また、日露戦争後の戦後経営の一環として、県が水害の見舞いとして農家にりんご苗を配るなど、行政の指導・支援も見逃してはならない。
このほか、碑文の伝えるところによれば、上水内郡古里村富竹の蚕種商宮沢七右衛門は、明治六年青森県へ蚕種を販売に行ったとき、気候が長野県と似ていることを知り、りんご苗を持ち帰って自家で大きくし、同村のりんご栽培の第一歩とした(富竹地区西沢秀男宅)。また、長野県の巡回教師真鍋猪之助は明治四十二年に退職後、当時の上水内郡長紀浦次郎らとはかって長野市上松にりんごを植えて、和合園と名づけ、さらに先進地青森県などへ視察にいき、その改良につとめた(上松五丁目真鍋宅西側)。