林業の育成

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県下の工業がしだいに発達するにつれて、薪炭用材の供給が年を追って不足を告げ、隣県からの供給を仰ぐようになり、その価格は騰貴し将来が憂慮されていた。また、明治二十九年(一八九六)・三十一年の大水害と桑の霜害は森林育成の立ち遅れが一因といわれた。しかし、またいっぽうで、地域によっては人口の増加にともなって耕地の拡張をはかる必要性にもせまられていた。

 埴科郡豊栄村をはじめとして、東条村、東寺尾村、柴村、西条村のうち欠(かけ)組、更級郡小島田村、田牧村、東福寺村、小森村、西寺尾村、杵淵村、御厨村のうち布施組の計一〇ヵ村二組は共有入会山をもっていた。その入会権は豊栄村が一万分の三四二四と圧倒的であり、ついで東条村が同一七二一を占めていた。入会山の面積は約七百町歩におよび、東は上高井郡保科村に、南東は小県郡傍陽(そえひ)村(真田町)に、西は西条村に、北は東条村に接していた。上高井郡と小県郡に接する他郡の地籍はいずれも国有林で、林業の経営が早くからおこなわれていたために、りっぱな森林をなしていた。


写真14 更埴二郡十二ヵ村入会山山札
(山崎雄司所蔵)

 地元の関係村々では二十七年七月、この入会地のうち、畑地に適した箇所一五町歩を開墾し、三十二年二月には第二回目の開墾をおこない、全部で五七町歩余の畑を得ることができた。また、入会地と個人の民有山林との境界争いの発生を心配して、組合では三十一年六月に入会地を地元の豊栄村に貸しつけることになった。同村ではただちにその借り受け地に植林をしたが、これが入会山植林の第一歩であった。

 明治三十五年ごろより、同入会地を実測して原野の整理をおこない、秣(まぐさ)場地として残すところと、山林とするところを区画し、植林地として区画したところは組合直轄造林(ちょっかつぞうりん)するところと貸地造林するところとに分けた。組合直轄造林の反別は一九八町歩あり、からまつ・赤松・ひのきが植えられた。苗木は県営の苗圃(びょうほ)から小苗の下付(かふ)をうけ、一年間、組合苗圃で育てたうえで、山に移植した。苗木の種類によって地味を考え、植える土地の雑草・灌木(かんぼく)などを刈りとり、一坪(三・三平方メートル)一本の割りで植えた。その作業員は板鍬(くわ)で一尺四方、深さ八寸ほどに掘り起こし、監督員がそれぞれの穴に苗木を配った。植えたのちは年一回、三年ほど雑草刈りの手入れをおこなった。また、野火の延焼を防ぐため、植えたところと他との境界に幅三間(五・四メートル)の防火線を設け、毎年一回、防火線の刈り払いをおこなった。この時期に山へ入るものは、火道具の持ち込みを禁止された。三十一年五月、更級郡共和村大字小松原で失火による山林火災が発生し、一五町歩余(約百四十九ヘクタール)を焼きつくしたのは衝撃(しょうげき)的なできごとであった。さらに春秋には常設監督員五人が交代で巡回して境界の保護、盗伐の有無を調べ、山札を所持しないものの山入りを監視した。

 人工造林一町歩当たり年間経費は、下付をうけた杉苗三〇〇〇本を一年間養成して、植栽費、監督員手当てそのほかをふくめて二五円三五銭かかっている。そのうえに平均一割五分の枯損による植え直し代七円四二銭、下草刈り・藤切りの手入れ代一円三五銭、さらに枝打ちを六年目に一回、一一年目に一回、間伐を一五年目、二二年目、三〇年目におこなって、枝打ちと間伐費用が一五円八〇銭加わる。

 山林の必要性から、一地区が共同で借りて共同で管理する方法もとられた。上水内郡三輪村大字湯谷区では、明治三十四年から向こう四八年間、同郡浅川村字北郷区から五〇町歩(約四百九十六ヘクタール)の山林を永小作で借り受け、杉・からまつの苗木を購入したり、郡より下付をうけて植林した結果、三十八年にはその数一〇万本に達した。同年春の農繁期を迎えたところで、植えつけ作業は一時中断し、区民が交代で野火の監視を始めた。

 ところで、こうした民有林の育成と維持管理をはかるためには、それなりの人材が必要であり、各地で講習会が開かれた。埴科郡第二期林業講習会は三十八年二月十日から十九日まで、松代伊勢町松代公会場で開かれた。事務一切は松代勧業協会で取り扱ってきたが、十九日の修了証書授与式では協会会頭大里忠一郎が開会の辞を述べ、大鳥居英太郎郡長が修了者二五人に証書を、吉田講師は聴講者二八人に聴講証明書を授与して、林業の基本的知識の普及につとめた。

 また、三十二年創立の信濃山林会でも、県会議事院を利用して山林講習会を開き、かつ折にふれて同会刊行の講話筆記を、地方委員である郡長から町村長あてに購読者募集の依頼をするなど、林業の振興をはかった。

 林産物として主なものは材木と薪(まき)であるが、三十年代の販売額はわずかであった。明治二十九年度の埴科郡物産移出入の状況をみると、郡外への移出総額は生糸や蚕種を中心に八二万円、移入総額は三二万円であった。移出品のなかに材木はなく、移入品として木材一五〇〇円、薪三〇〇円が計上されている。全体として、長野市域において林産物は不足しており、三十五年七月から十二月の長野停車場における発着貨物調べによれば、新潟県直江津方面その他から大量の薪と材木が到着している。

 山村の上水内郡七二会村では薪、木材、木炭の生産がおこなわれていた。木炭の生産は明治四十年代、炭材が乏しくなるにつれて、遠方から炭窯まで運び、労賃高騰のおり、産額が減少して将来が心配された。製炭に従事しているものの収入は月二〇円くらいであり、きわめてきびしい生活を強いられていた。