農耕馬の飼育は、その畜力の利用によって農作業の適期を逃さないことだけでなく、さらには農家経済上有利であるためである。たとえば人力一人の労賃は一日当たり六〇銭ないし三五銭ぐらいであったが、馬力ではわずか十二、三銭でたりる。さらに副産物の廐肥(きゅうひ)が得られることによって、金肥(きんぴ)(購入肥料)を少なくする利点があった。
牛馬の各郡内外への移出入は明治二十九年(一八九六)の場合、上高井郡では牛三五八頭と馬二一頭の移出と牛二七八頭の移入がある。上水内郡では移出馬として三五頭、移入馬として二五四頭がみられる。長野市では移入牛一五〇頭(六〇〇〇円)、同馬一〇〇頭(三〇〇〇円)であった。それらは、長野市箱清水に開設された、上水内と上高井両郡の連合組織である産牛馬組合市(いち)で売買されたとみられる。牛馬市での相場は年によって、産地によって異なるが、三十二年五月の市では二歳の牝牛(めすうし)一頭六十余円、平均一頭二八円、いっぽう、馬では秋田産四歳葦毛(あしげ)の馬三百七十余円を最高として、このほか三歳、四歳、五歳馬などで五五円から八、九十円までの開きがあった。農家に買い入れられ、あるいは出産した馬は国内種が圧倒的であり、外国種との交配による改良品種は佐久地方に多少みられるにすぎず、北信ではほとんど進んでいなかった。
更級郡では馬耕は明治二十五年以来、郡農会としてたえず普及につとめてきた結果、技術に熟達したものが続出した。また、三十三年五月、上水内郡朝陽村大字南堀では、郡農会主催の第四回馬耕競争犂(すき)会が三日間にわたって開かれた。事前に各町村農会あてに多数の出場を依頼している。日露戦争時にさいして働き手の欠乏によって、馬耕の必要性がとなえられ、その発達をはかるために競争犂会はいっそう盛んになった。
こうして各地で馬耕技術が徐々に浸透した結果、飼育馬頭数と田の馬耕反別は表28のようになっている。これによれば、郡によってさまざまな、異なった特徴をみることができる。馬の頭数では上水内郡が圧倒的に多いが、その一頭当たり耕作反別は三反八畝と、長野市を除いて最低である。これに対して、頭数で上水内郡についでいる更級郡では、一頭当たり馬耕反別は一町三反歩(約百二十九アール)と広く、馬耕をおこなっている田の割合も三六・二パーセントともっとも高い。少ない頭数でもっとも効率的な使役をしているのは埴科郡である。一頭当たり二町一反二畝を耕し、馬耕田の割合が第二位の二八・七パーセントになっている。しかし、県全体と比べると更級郡以外は低調であった。
馬の改良繁殖(はんしょく)にとってたいへん有益な手だてとして去勢(きょせい)の実施があげられる。政府は早くからそれを勧めていたが、なかなか実行をみるにいたらなかった。明治三十三年になって種牡馬(しゅぼば)以外の馬は去勢するように、つぎのような二つの理由で、軍部(第九師団獣医部長)から県、郡役所を通じて各町村役場に通知がなされた。一つは、一般農家の馬の売買価格についてである。売却価格が購入価格に比べて割安になっているのは、馬の性質がよくないために、それを使役するとき危険を予防する策を講じなければならなかったからである。すなわち強く俯(ふ)綱を張り、俯仰(ふぎょう)自在にして跳(は)ねあがり・蹴(け)りあげをおさえ、重い口輪(くちわ)、鉄鋼などをつけて頭部を拘束することによって咬(か)むのを防ぎ、牽引(けんいん)にあらがえないようにした。こうして馬の五体の運動を制約しつつ使役するため大いにその体力を損なうので、おのずと売却価格は安くおさえられた。二つ目は、三十三年に発生した北清事変にさいして、ヨーロッパ列強の軍馬は性質温和でよく任に服し、行軍中も隊列を乱さなかったのに比べて、日本の馬は性癖が悪く、隊列を乱し、その操縦が困難であったために、兵隊の体力の消耗はいちじるしかったことがあげられている。
三十七年の日露戦争にさいしても徴発された牡(おす)馬は去勢しないものが多く、その性質は荒々しく制御がむずかしいうえに、咬まれたり蹴られたりして危害をうける兵卒も出た。馬の去勢はその性質を従順にし、飼育を容易にするが、一般民衆はまだその有効性を知らず、これを敬遠する傾向があった。
戦時中の同年九月、県令第二八号によって去勢奨励金下付の施行手続きが公布された。これにもとづいて、種牡馬の見込みのあるもの、体質虚弱なもの、病気にかかっているものを除き、その他の牡馬はできるだけ多く去勢するよう、村当局が勧誘した。そして三歳、四歳の牡馬を所有し、去勢を希望するものを構成員として、村単位の団体が組織された。去勢に要する費用は、去勢場所への往復費、係留中の費用、廐舎(きゅうしゃ)費、飼料、技術者雇い入れ費などであった。埴科郡豊栄村では、三十七年十一月三十日から松代町(代官町)で去勢をおこなうので、乾燥した藁(わら)二束、燃料(薪)二束、二、三日分の飼料などを持参のうえ、前日正午までに馬を牽(ひ)いてくるよう、一四人の所有者に通知が出されている。
馬は農耕、運送に使われるだけでなく、農閑期には競馬に繰りだされた。三十四年五月の長野市競馬大会は、丹波島の河原でおこなわれた。見物人は周囲三二〇間(五七六メートル)の大馬場場外に黒潮のように押し寄せ、来賓席には押川則吉知事、平井警部長の姿も見えた。夜来の雨で丹波島橋ぎわから会場にいたるまでのあいだにあった小川が一尺五寸(四五センチメートル)余の増水となって、前日かけた橋を押し流してしまった。その掛け替えで午前八時開会が正午過ぎになってしまったが、近隣諸郡の村々から集まった馬一九三頭は、コースを三周、五周、七周、一〇周する種目に分かれ、それぞれ五頭で競走した。
明治三十五年五月、長野停車場の東の鉄道敷地内に、上下水内、上下高井、更級、埴科、小県の七郡および長野付近から集められた馬は二百余頭を数えた。午前九時ごろからおいおい出場チームをつくって競馬をおこなったが、午後三時ごろになって鉄道局員から解散させるよう通告された。その理由は見物客がおおぜいとなり、往来の通行の障害になるだけでなく、列車の運行上も危険であるとみなされたからであった。競馬会主催者は観客に解散するわけを告げ、賞品は同年秋の大会まで主催者が預かることになった。