農家と地主の経営

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農業生産力の高い地帯ほど、農家は地主と小作農に分かれていき、小作地率や自小作・小作農家の割合が高まるものである。表29は郡別にその状況をみたものである。米の反当たり収量は更級郡と長野市が多く、それゆえ田の小作地率ももっとも高い。明治二十六年(一八九三)から四十年にかけて県全体の小作地率の伸びは四・四ポイント増であったが、各郡の伸びはいずれもそれを上まわっている。とりわけ上高井郡は一三・四ポイント増におよんでいる。自作・小作分化のようすは、県全体としては自作から自小作へさらに小作へという没落化現象をたどっている。郡別にみると、さまざまな増減現象を示しているが、そのなかで更級、埴科、上高井各郡は自作減・自小作増へ、上水内郡と長野市は自小作減・小作増という動きによって、小作地の増加をもたらしていることがわかる。


表29 農家の小作化状況  単位:%

 これらの自作農・小作農の経営・家計や小作料水準を、明治四十一年調査の上水内郡『大豆島村是(そんぜ)』によってみるとつぎのようになっている。

(1) 自作農反当たり収益としては、中田の籾(もみ)収入・雑収入が二八円九九銭、生産費として公租(四円三〇銭)、義務費(二二銭)、賃金(七円五三銭)、肥料(五円一〇銭)、小計一七円一五銭、差し引き一二円一五銭が所得である。また二毛作田(上田)としては、裏作の麦収入二四円を含めて収入が五七円五〇銭、生産費は賃金(一七円八〇銭)と肥料(一九円七〇銭)が増え、他の諸経費を合わせて四二円二八銭、差し引き所得は一五円二二銭となっている。

(2) 小作農の所得は田反当たり収入(二九円)から小作料(一六円)と肥料(五円一〇銭)、賃金・雑費(五円七〇銭)を引いて一円二〇銭が手元に残る。畑の場合は五円五〇銭である。自作農と比べてこの農業所得の低さは賃稼ぎなどで補った。同村の職種別年間賃金総収入として多いのは、出稼ぎ(男)八八五円、同(女)六九五円、荷車賃稼ぎ八一九円、工女七八〇円、荷馬車賃稼ぎ六七五円などであり、それらをふくめて三〇業種から収入を得ている。

(3) 一戸当たり農家生活費は二六〇円六六銭であり、その内訳は自給部分をふくめた穀類が一二八円余、その他の副食費四九円など、食費のみで六八・一パーセントを占めている。一人当たり家計費は三九円となる。

(4) 田からあがる小作料は反当たり籾四俵、価格にして一六円、そこから諸税負担額四円三〇銭を差し引くと、一一円七〇銭が地主の所得として残る。畑の小作料は一〇〇坪(三三〇平方メートル)当たり四円五〇銭であるが、そこから諸税を引いて、反当たり一〇円五四銭となっている。

(5) 同村の田の反当たり生産額は平均二二円六三銭八厘で、そのうち小作料は一六円であるから、生産額に対する小作料率は七〇・六パーセントとなる。また、畑の場合は五〇・〇パーセントである。ただし、諸税のうち、地租は地価金の二・五パーセントのみの計上であり、日露戦争にともなう臨時特別税分が加味されていない。

 ところで、田の反当たり売買価格は一四八円五〇銭、畑は一二一円五〇銭であったが、この売買価格と、そこから得られる収益(所得)を比べた利回りを計算すると、田については七・九パーセント、畑は八・七パーセントとなる。地租のより高い負担を考えれば、それらの値はさらに下がるはずである。いっぽう、同じ時期の地域一般の年利率は貯金六パーセント、公債五パーセント、株式七パーセントであり、貸し金利率は年一〇パーセントであった。資金的に余裕のある地主層にとって貸し金はもっとも魅力的であったが、高利貸しが有利なのも、資金が順調に回収されるかぎりにおいてであって、ひとたび貸し付け金が滞って、抵当の田畑を取得しても、その後の小作料率は地主にとって満足するものではなかった。この時期、数町歩以上の地主は土地集積よりも有価証券投資の方に意欲的になりつつあった。これに対して、土地所有を拡大するのは、中・上層農家や小地主層であって、利殖・利回りの経済観念は二の次で村の名望家としての地位や強い発言力を望んでいる階層のなす業(わざ)であった。そこで、これらの名望家を志向する農家・小地主の経営をつぎにみる。

 埴科郡豊栄村では上層農家が明治三十一年に、郡役所あてに所得金高届けを提出している。所得税課税の参考にされるものであるため、提出者が過小申告していることは十分に考えられるが、それら申告農家のうち、上位四戸の所得状況をみたのが表30である。いずれも一度は村長となる素封家(そほうか)である。


表30 地主の所得(明治31年) 単位:%(円)

 A家は蚕種製造、養蚕業、農業に重きをおいた豪農型である。自作地二町二反歩(二一八アール)、小作地六反歩(六〇アール)である。B家はA家よりも貸し金業と田畑貸し付けの地主的色彩が濃い準豪農型である。自作地一町七反歩(一六九アール)、小作地一町九反二畝歩(一九〇アール)である。C家は貸し金と田畑貸し付けにもっとも比重をかけた村一番の地主階級である。自作地九反歩(八九アール)、小作地二町一反四畝(二一二アール)であった。三十四年の所得申告書では、村内の小作地一反歩を買い足している。D家は山林所得が五〇パーセントを超す山林地主である。D家は三十四年には村内に畑六反六畝歩(六五アール)と西条村に田六畝(五・九アール)余歩を取得している。蚕種業を営んでいるA家は、三十四年には東条村と屋代町の土地を手放して、村内の小作地を買い求め、総反別で六反八畝歩の増加をきたしている。また、C、D家ともに土地集積に余念がない階層である。

 どの農家も公債利子収入を得ているが、日清戦争にともなって交付された軍事公債、整理公債を所有している。三十四年にはそのほとんどが無所有になっていることから、同村では有価証券投資になじむ環境ができあがっていなかったといえる。