明治十年代から各町村では、地元の老農あるいは篤農家(とくのうか)を中心として農談会が開かれ、在来の小農的農法を科学的農法に高めて、その普及につとめてきた。これがさらに発展し、明治二十九年(一八九六)九月の県が制定した農会準則によって、農会として組織化された。その二年半前にはすでに真島農会が設立されており、事務所は村の栄昌寺におかれた。翌年三月、会規約を定めるとともに、従来からある真島農産品評会を吸収した。同農会規約によれば、このときの会の目的として、農事談話会、農産物品評会・種苗交換会、霜害・獣疫・鳥虫病害予防駆除、勤勉貯蓄、肥料の共同購入など一八項目があげられている。
これら農事改良の一部は、他の村では二十九年以後も農会の名称をとらない団体によってになわれた場合もあった。上水内郡大豆島村では、三十年に肥料を安く買い入れるために、共同肥料買い入れ組合をつくった。上水内郡若槻村の勧業会では、同村に馬がいないため馬耕をおこなうことができなかったので、鈴木長兵衛と宮澤元吉は三十一年十月、馬耕のために馬を買って、会員が馬耕をするときには無料で貸しあたえることにし、郡農事改良技手が出張して馬耕の手ほどきをした。
村農会の運営について特徴的な真島村の場合でみると、同会三十五年度決算書から、歳入二五円八〇銭は村費補助一〇円のほか基本財産一五〇円の利息一〇円八〇銭と寄付金五円でまかなわれており、比較的高い自立性がうかがわれる。ちなみに一五〇円は中沢貞五郎が取締役をしている更級銀行に預金されていた。三十七年十二月の真島村農会での更級郡長のあいさつによれば、どこの町村系統農会でも補助金の依存度が高いなかで、真島村農会の場合は独立の基本財産をもち、篤志家の義援金で活動をし、かつ年々の資金を増やすなど郡内の模範と評価された。実際、法的には二十九年に県が定めた農会準則によれば、町村農会の費用はその会員の負担となっていたが、三十六年の農会法は町村農会への補助金交付にもとづいた上からの統制色の強いものになっていたのである。
明治三十年代半ばまでは農会の果たす役割はさほど大きくなかった。農会を通じて奨励された種もみの塩水選の普及状況は、表32のように埴科郡以外はたかだか二〇パーセント程度であった。また、短冊形苗代についても表33にみられるように、はかばかしくなかった。これが実効をあげるようになったのは日露戦争をきっかけとしている。あとで述べるように、各郡書記および農事巡回教師らが各村に派遣され、村督励委員と協力して農事改良につとめた結果であり、つぎにみるような村ごとの農会加盟率(加入率)向上の成果でもある。
表34は長野市域における三十九年一月の各町村農会を加盟率別に分類したものである。上水内郡では村をあげて農会に加盟しているのは、三輪・長沼・朝陽・柳原・吉田・七二会の六村で、小田切・芋井・大豆島の三村が六〇パーセント台にとどまっている。更級郡の加盟率一〇〇パーセントは真島・今里・共和の三村の農会である。
日露戦争が始まって、郡農会は町村農会に農事改良督励規則を設け、督励事項を実行普及させようとした。そのための督励委員を、ふだん農事改良に熱心な資産家のなかから大字ごとに選んだ。督励規則のひな形によれば、戦時貯蓄組合を設ける、種子選択(塩水選)、苗の正条植え、緑肥の栽培と堆肥(たいひ)の施用、購入肥料の産業組合利用、短冊苗代の普及とその病害虫駆除を督励している。さらに町村の事情に応じて特別事項として産業組合、耕地整理、副業奨励などを設けている。戦時の農業に関する経費と労働力節減および戦費調達のための郵便貯金を指示徹底している。
農会令改正にともない、三十九年初めに各郡の農会則が改正された。農会の目的である農事の改良について十数項目が掲げられている。それらの項目の記載順序に各郡農会の方針があらわれているとすれば、たとえば耕地整理の奨励についてみると、埴科郡農会では第一項目に、上水内郡農会・上高井郡農会ではいずれも第三項目にあげられているのに対して、更級郡農会では第九項目に位置づけられている。また、産業組合の育成を上位に位置づけているのは、上高井郡農会であり、逆に上水内郡農会ではまったく掲げられていない。三十九年一月に鈴木小右衛門・岩田勝義・羽田定八らによって設立された長野市農会の会則には、わずか八項目の事業目的が盛りこまれているにすぎない。