座繰製糸をいとなむ松代町民は町内数十ヵ所の揚返場(あげかえしば)を利用していたが、明治二十年代の糸価暴落で大損害をこうむってしまった。これによってかれらは他に依存する危険をさとり、みずから揚返しをおこない、直接販売するようになっていた。その結果、目先の利益にはしり、粗製濫造(そせいらんぞう)におちいって、信用問題が軽視されたのである。
大里忠一郎はこうした状況を憂い、同志とはかって座繰製糸の共同揚返しとその販売を目的とした申し合わせ組合の製糸改良組を結成した。大里らは土地、建物をはじめ機械器具一切を数千円で買いもとめ、これらの設備を組合に貸しつけたので、組合員は一口金二円五〇銭という破格の安さで加盟、利用することができたのである。二十九年六月に開業したとき、組合員はわずか五〇人にすぎなかったが、その後製糸の産額、組合員数ともに増加していき、隣接郡内の組合員もふくめて一三〇人にもおよぶようになった。
三十六年六月になって、同改良組は産業組合法による販売組合に組織がえされた。組合の目的は座繰製糸の粗製濫造を防止し、改良をはかり、その評価を高めることにあった。各組合員の製糸に同一の揚返しをし、繊度(せんど)(糸の太さ)、色沢(しきたく)(色つや)など品位を審査し、等級別に束ねて、商標による取り引きをおこなった。売却は競争入札でおこなわれ、売上代金は二日以内に計算・配分されたが、製糸売却前であっても出糸者の要請があれば相当代金の仮渡(かりわた)しがなされた。
また、座繰製糸は農商家の副業として営まれていることが多く、時期によって組合員からの出糸量が大きく変動するため、揚返場の工女の雇用に苦労する場合もみられたが、組合結成当初においては出糸者である組合員から原料繭の一定量が繰糸工女に渡され、彼女らが自宅で製糸し、それを直接、組合員の名で揚返場へ持ちこむ場合も多くみられた(図4)。このときは繭を供給した組合員が繭の品質を知るのみで、揚返場へ持ちこまれた糸の品質がわからないため、予想外の悪い成績であった場合、揚返場(組合)とのトラブルが発生した。この機会をたくみに利用する悪徳商人もいたりして、組合製糸の真価を定着させるのは容易ではなかった。
これらの困難を克服しつつ、競売ごとに遠く京都・金沢・福井・桐生・足利などの機業家または仲買商による入札購買が加わり、声価はしだいに高まっていった。