煉瓦工場と新しい工業のはじまり

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休刊していた『信濃新報』と『信濃毎日新報』を『信濃毎日新聞』として引きついだ岡本孝平は、いっぽうで明治二十三年(一八九〇)、千歳町に煉瓦(れんが)工場を新設した。この名称は三十年から岡本商行煉瓦工場、四十三年からは岡本煉瓦合資会社工場と変わりつつ、二十四年から始まった碓氷(うすい)トンネル工事の材料として、あるいは洋風の近代建築普及にともなう煉瓦需要の高まりに応(こた)えた。

 同工場の工員数は必ずしも一定していないが、三十年代にはせいぜい多くて三〇人(男女)規模であった。年間二〇〇日の稼働(かどう)、一日一〇時間の労働条件で、工員の一日当たり賃金は五〇銭であった。その年間生産高について、三十九年の『長野県農工商統計書』で見ると、県内全体で五五万八八〇〇個、生産額七〇二八円のうち、岡本工場では四五万五〇〇〇個(八一・四パーセント)、五四六〇円(七七・七パーセント)と、圧倒的地位を占めていた。その後、四十三年の規模拡大に先立って、四十二年中の煉瓦の需要・引き合いに関するもくろみによれば、中央西線関係四二〇万個をはじめ、日本石油会社直江津製油所より一〇万個、明科製材所より約二十万個、上田蚕糸専門学校より五〇~八〇万個、県庁舎新築で少なくとも一〇〇万個以上、その他の需要を統計上からみて一〇〇万個と踏んでいる。そのほか碓氷の迂回(うかい)線トンネル約四里(一六キロメートル、八ヵ年事業)の需要をふくめて、四十三年度以降も年間五〇〇万個以上の引き合いを見こんでいる。岡本工場として在来の第一工場では手技製造器一〇台で年(四~十月の七ヵ月間)に八五万個、第二工場では機械一台を一日一〇時間稼働して年七ヵ月の生産高として二九八万個、合計三八三万個を計画している。

 直江津線(のち信越線)が開通し、直江津機械場を長野駅構内に移すことによって長野工場が誕生した。二十六年の信越線の全通、三十二年北越鉄道との接続は企業の勃興(ぼっこう)とあいまって、貨物輸送を盛んにし、車両を増加させたが、工場が手狭(てぜま)で、設備も不備であったため、労働時間を延長しても修繕が追いつかず、作業は新橋工場に委託せざるをえなかった。そこで三十五年の篠ノ井線の全通を機に、工場用地を一万四〇〇〇坪(四・七ヘクタール)に拡張し、旋盤(せんばん)、製缶(せいかん)、鋳物(いもの)、鍛冶(かじ)、木工などの各工場を新設した結果、ようやく機械設備のととのった工場に生まれかわった。

 この新工場が完成する直前の三十六年九月の工員・職員数は四三四人であった。その内訳とそれぞれの賃金水準は事務六人(一人月給二〇円、五人日給一人当たり五七銭)、技術者四人(月給同三八円)、工場取り締まり五人(日給同四四銭)、有等工員五人(日給同一円四八銭)、無等工員三〇二人(日給同五六銭)、工員手伝い九三人(日給同二九銭)、工場道具番七人(日給同四三銭)、その他一二人となっている。このあと、規模拡張によって、就業者は大正四年(一九一五)には六七七人を数えるまでになり、逓信(ていしん)省(鉄道院)管轄(かんかつ)の長野工場は重工業として、男子雇用の場として、いっそう重要な役割を果たした。

 無等工員の賃金水準は三十九年『長野県統計書』の長野市街地職人別日給相場によれば、大工四五銭、瓦(かわら)ふき四五銭、経師(きょうじ)五〇銭、畳さし五〇銭などとなっており、これら道具を自分持ちとする一般の職人よりも優遇されていたといえる。

 これら労働者の出身地を、明治三十年代前半の時期に新たに雇用された三三〇人について見たものが表37である。長野市の七一人と上水内郡芹田村の三九人、若槻村(いずれも現長野市)の一六人が目だつが、県内者は総人数の五九パーセントにすぎない。これは、県内者がもっぱら木工関係職人や職人手伝い、見習い職人が多かったのに対して、仕事の重要部分をつかさどる旋盤工、組立工、製缶工などは、東京府や埼玉県などの県外者に依存せざるをえなかったためである。


表37 新規雇用労働者の出身地

 越(こし)壽三郎を社長とする信濃電気株式会社は、明治三十六年に上高井郡須坂町(須坂市)に本社をかまえて発足した。あとで述べる長野電燈株式会社の設立(明治三十一年、本社長野市)に数年遅れていたが、ほどなく長野市においては両社のあいだに、電力供給区域拡張をめぐって激しい競争が繰りひろげられた。しかし、この競争は双方にとって得策ではなかったので、長野市内に設けられた信濃電気株式会社の設備はいっさい、長野電燈株式会社に譲渡され、そのかわり、長野電燈において電力不足が生じた場合には、必ず信濃電気から供給を仰ぐこととされた。こうして信濃電気は、上水内郡東部の浅川・若槻・三輪・古牧・芹田の村々までを営業区域とした。それ以西は断念して南進し、更級郡、埴科郡を手中におさめ、はては小県郡にまでおよんだのである。

 信濃電気は豊富で低価格の電力の有効利用をはかるため、カーバイド生産をもくろみ、明治三十九年四月に、原料と製品の集散に便利な信越線吉田駅(北長野駅)前に工場を新設した。カーバイドはアセチレンガス発生の原料であったが、当時、一般の技術水準は低かったため、とても利用者を満足させる品質ではなかった。そこで吉田工場では日夜、研究を重ねた末、四十五年には工場を拡張し、製造高を倍加するまでになった。カーバイドの用途も、室内点火だけでなく、鉱山用ランプ、漁業灯などに広がっていき、吉田工場の製品は市場で好評を博した。その結果、同工場の生産は日増しに増大を迫られ、新潟県境にあった高澤発電所の発電機を一基増設するほどになり、ここに化学工業の基礎が固められた。