明治二十七年(一八九四)九月、「電気営業取締規則」の公布に先んじて、長野町では裾花川での発電所建設の計画が動きはじめていた。更級郡戸倉温泉の開祖坂井量之助は、同年三月六日茂菅地区の仁棚(にたな)地籍に用地を五〇〇円で購入契約までして発電所建設を企画し努力したが、地元関係者とのあいだに厚い壁が立ちはだかり、ついに日の目を見ずに終わった。そのあとを受けたのが地元の小坂善之助らを発起人とする長野電燈株式会社であった。坂井や小坂らの発電所設立の動きは、当時高まりつつあった電力利用の要望とあいまって急速に加速していった。電気にかかわる当時の考えを『信毎』は、「幸いわが県下では、水力電気に好適なる急流が多いので、これを利用し諸般の工業に利用すれば、その利益は莫大(ばくだい)である。わが長野町を例にとると、裾花川の流水を利用し、電灯もしくはその他の工業に利用すれば公私の利益が大変多い」としている。
長野電燈株式会社の創業総会は、明治三十年五月十七日長野市城山館で開かれた。資本金四万五〇〇〇円であった。この間、長野県知事から「裾花川河水引用を許可するに付いて命令書」を受け、明治三十年三月三十日裾花川茂菅仁棚地籍に茂菅発電所が完成した。四月十八日に検査が完了し、電灯使用許可を受けて五月十日事業開始のむね長野県知事へ届けを出し翌十一日から開業した。市制をしいたばかりの長野市に新たな明かりの供給を開始したのである。当時は、「水から明かりがつくは手品師以上だ」、「風ふけどかぜにも消えぬ」、「電灯の光は寿命を縮める」などいろいろな風評がとびかった。
開業翌日の五月十二日『信毎』は、「電灯需要家の心得」として大意つぎのように報じている。①電灯についての安全は会社で危険のないように注意してあるが、手荒の取り扱いをするときは不測の危害がある、②電灯の紐(ひも)を上げ下げするときは紐を取りつけてある二つの玉で加減すること、③電灯を消すときは灯球の上の金物に取りつけてある黒い柄(え)をひねること、④電気は水や金物類および地面等禁物であるから、湿(しめ)った手や釘(くぎ)、地面などで、電線器具紐などに直接ふれることをしないこと、⑤いかなる故障があっても自分で直さず、会社または最寄りの会社員へ通知すること。
茂菅区では、発電所誕生の年の新春(一月二十日)に区民集会を開き、協議の結果つぎのような契約書をつくり区民の意思統一をはかった。
第一、電柱立ての地代は年貢なしで貸与する。なお家屋新築の場合は柱立ての変更に応ずること。
第二、区内中央へ無料で一六燭光(しょっこう)の外灯をつけさせること。しかも会社営業中は一夜たりとも欠灯のないこと。
第三、会社が第二の契約を履行しない場合は、区内の電柱を全部一時取りはらわせること。
発電に必要な水は、およそ六〇〇メートル上流の裾花川をせき止めて取水口をつくり、石垣でかためた水路を通して送られた。しかし、何分にも落差が取れない場所で、わずかに八メートル足らずであったので、裾花川出水のときは水路にごみや砂がつまったり、こわれたり、また発電所を侵すおそれがあった。そこで、発電所には常時技術員五人と線路(電線)部四人を置いたが、当時の所員の日記には、「午後三時ころより川が三尺余り増水し、電力用水路にゴミが流れ込んできたので、所員五人では手がまわりかね、水番手伝いとして臨時人夫二人を頼んだ」とある。この臨時人夫として頼まれる人はいずれも地元茂菅区の人たちであったが、このようなことは大雨のたびに繰りかえし起こっていた。
各家庭にともった電灯の火料はおよそつぎのとおりであった。
半夜灯(毎夜一二時まで点火するもの)
一〇燭光 一灯一ヵ月 六〇銭
一六燭光 同 八〇銭
終夜灯(終夜点火するもの)
一〇燭光 一灯一ヵ月 七〇銭
一六燭光 同 一円
長野や近隣平坦(へいたん)地では、この電力で善光寺や長野停車場付近をはじめ、旅館・商店そして一般家庭まで、しだいに電気がともることとなった。電力の需要が増えるにしたがい、会社では二年後同発電所に第二号の発電機六〇キロワットを増設した。
さらに三十八年には第二発電所として、二キロメートルほど上流の小鍋地籍に二五〇キロワット落差二〇メートル(茂菅の約三倍)の発電所を設置した。この電力は主として芋井・小田切・安茂里などへ供給された。またこの五年後には三〇〇キロワットを増設し、電灯の普及はしだいに西部の山間地までも広がっていった。昭和十一年(一九三六)、善白(ぜんぱく)鉄道が長野から小鍋まで開通すると、小鍋発電所は裾花峡の美観とあわせて人びとが多く訪れ親しむところとなった。しかし、ときを同じくしてこの年増大した電力需要に応じるため、里島に高性能の発電所を設けるにおよんで、茂菅と小鍋の古い発電所はその歴史的役割を閉じることとなった。