明治政府は、その施策を国民に周知させるために、当初新聞保護政策をとった。長野県も新たな施策を知らせ、文明開化をいっそう推し進めるために新聞を活用した。その結果、長野町では長野公布式御用紙第一号『長野新報』(明治六年・一八七三)から始まる新聞の編集・印刷の発展をみることとなった。同時に長野県庁では、県布告や県布達書等関係の印刷の需要を生んだ。これに加え学校教育の充実、銀行の創設、信越線の開通などが、さらなる印刷の需要を急激に高めていった。
その保護政策のもと業績をのばしてきた「信濃新聞株式会社」は、明治三十一年(一八九八)その業務いっさいを岡本孝平から小坂善之助に引き継いだ。小坂は信濃銀行頭取、長野電燈株式会社社長を兼ねており、近代的経営で着実に発行部数をのばしていった。彼は衆議院総選挙において、当時長野一区(上水内・更級両郡)で第一回から第三回まで議席を独占してきたが、第四回総選挙では更級郡側は小坂の信濃実業同志会に対して更級同志会を結成し、飯島正治(六十三銀行頭取)をたてて議席を確保した。また小坂が『信毎』を手がけてからは、更級郡側も新聞の必要性を痛感し、三十二年長野新聞株式会社を設立して『長野新聞』を刊行した。この『信毎』と『長野新聞』および『長野日日新聞』三紙は、明治三十年代の現長野市域で激しい競争をおこなった。三紙の発行部数は合計一〇五六万六四三三部で、うち『信毎』六五九万八五一三部であった(三十七年)。
信濃新聞株式会社は新聞発行のかたわら、つちかった印刷技術を生かして県行政に必要な布達書等や、『信濃山林会報』(三十五年)『信州軍人紀年帳』(三十七年)など数多くの印刷物を手がけている。また、長野新聞株式会社も『上水内郡会沿革史』(三十二年)のような印刷物を手がけている。『信濃毎日新報』(十三~十四年)の印刷を担当した松葉軒西沢喜太郎は、『信濃毎日新報』が『信濃日報』と合併したのちの活版所で、西沢印刷所、西沢活版所等の名で印刷業を営んだ。西沢はまた『信毎』の対抗紙として刊行された『長野新聞』も手がけている。
明治二十三年創業した中村活版所(中村信太郎)は、若松町に移転した三十年代には菊八・菊四・四六半截(はんさい)・手まわし印刷機などの活版印刷機のほか、手引き式やはずみ車式の石版を使用して印刷もしていたという。三十年代には『郷土資料長野町小史草稿』(渡辺敏)『郷土地誌』(長野高等小学校編)など数多くの印刷物を印刷した。
柏與活版印刷所は明治二十四年、柏與紙店の四代目清水與助の時代に開業した。土蔵の軒先に手まわし機二台を置いて、仕事があると回していたといわれる。紙などの納入先である長野鉄道工場から関係書類の印刷の相談を受けたのがきっかけであったという。明治三十二年の「従業者持場割付表」には帳場二、植字二、文撰五、解版五、機械五、合計一九(内訳は帳場二、通勤五、生徒八、住込四)とあり、当時の長野市の工場の十指に入る大工場であった。印刷物では『長野県令達類纂』『長野県会沿革史』などを手がけた。
新聞経営の先鞭(せんべん)をつけた蔦屋(つたや)岩下伴五郎の店で奉公した塚田友次郎は、明治三十五年二月「蔦屋友次郎商店」を開店、御用商人として文具類を商ういっぽうで活版印刷機を備え印刷業務を開始した。そのほか、松木保三堂、松木活版所、吉沢活版所、宮尾活版所などがあいついで開業し、明治三十年代は長野市印刷工業のいわば草創期を形成した(表38)。のちこれらの印刷所で技術を習得したものたちが大正から昭和初期にかけて多数の会社を創設し、長野市の印刷工業を開花させていくのである。