松代製糸業の優等格生糸と工女

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松代地方の各製糸場が生産する生糸は、「信州エキストラ」といわれ、優等格糸として全国的に知られている。その価格も諏訪地方の製糸場が生産する「信州上一番」格の普通糸と比べて、六〇キログラム当たり数十円から一〇〇円以上の高値に達することもあった。普通糸が織物の横糸に用いられるのに対して、優等糸は縦糸に当てられる。普通糸の生産は能率を重視した大量生産主義によっていたが、優等糸の生産はそれなりに多くの時間がかけられ、一釜(かま)当たり年間一梱(こり)半ないし二梱「一梱は三四キログラム弱)の生産量で、諏訪製糸場の同二梱半ないし三梱に比べて、かなり下回っている。さらに繭の乾燥貯蔵でも、諏訪の半乾燥に対して、松代では生糸の光沢を重視し、本乾燥をおこなった。北信は湿度が高く、本乾燥繭を維持するために、繭倉庫の窓は小さくかつ数も少なく設計されていた。

 製糸器械は共撚(ともより)式であり、繰り糸に比較的多くの時間を費やすが、デニール(糸の太さ)をととのえ、抱合をよくする点に特長がある。この器械は県内では松代製糸場のみに導入されていた。

 諏訪、須坂の製糸業が発展するにともなって、県内産繭の需要は高まり、かつ、県下の桑園荒廃が進行するにつれて、繭質も低下傾向にあったため、必然的に良質繭を求めて、県外繭の依存率は高まっていった。中国・東海道筋、関東、年によっては奥羽地方から繭を仕入れ、数年仕入れに出かけているところには、一定の蚕種を飼育するよう奨励して、なるべく原料繭の雑ぱくさを回避しようとした。繭の種類と品質が多様化すればするほど、選繭は入念におこなわなければならない。六工社ではよその製糸場ではふつう、上繭として取り扱う品でも、一から三等までの格差をつけて分類した。

 このように年をへるごとに、繭質の維持、糸格の維持に多大の精力を割かなければならなかったが、それらは工女の熟練に負うところが大きかった。

 諏訪地方の工女募集は、長野県の隣接県から求めざるをえなかったことはよく知られているが、松代地方ではおおむね工場付近から募り、ほとんどが埴科・更級二郡の出身者で占められていた。しかも通勤工女が、白鳥館の場合、二五パーセント、六文銭では半分を占めていた。また、以前は貧しい家のもののみが工女となっていたが、明治三十年代半ばになると、高等小学校卒業者や相応の資産のある家の子女も加わってきた。工女のなかには一割ほど既婚の丸髷(まるまげ)姿もみられた。

 工女のおおまかな身元をみると、六工社の工女は他社とくらべて、士族が多く、六文銭は町家出身が、松城館では両者に加えて、在方のものが多かった。通勤工女のなかには、農繁期に欠勤するものが多く、経営者にとってその損害は少なくなかった。

 工女の賃金は毎月計算され、うら盆、天長節、年末など年三、四回に分けて支払われた。これは松代地域内では工女争奪がないことによるものであり、諏訪地方の年末一回払いと対照的である。彼女らの一ヵ月賃金は、多いもので十二、三円、少ないもので二円で、大多数は四、五円であった。また工場の休業は月に一、二回あり、うら盆、鎮守祭りなどには臨時休業となったが、工女たちは先を争って実家に帰った。

 工場内の食事の待遇については、飯びつが卓上に置かれていて、食べ放題であった。そのため、食事中はたいへんにぎやかで、女子には似合わない食べぶりのため、その量は一日一人当たり平均四合ないし五合におよんだといわれる。

 寄宿舎は一室一〇畳ないし一五畳とし、たいてい一畳当たり一人の割合であったが、窪田館では一〇畳に一五人詰められていた。ふとんは一人に一枚ずつ支給され、一枚を敷き、二枚をかけて三人抱き合って寝た。

 義務教育を終えない工女のために教育をおこなったのは六工社が初めてであった。初めのうちは社員が担当していたが、しだいに学校教師の出張授業となり、毎夜二時間ずつおこなわれた。生徒は一工場につき五、六十人ないし八、九十人であった。また、六工社においては希望者に義務教育以上の教育をほどこした。六文銭では新手の工女に対して約四年間、隔日、製糸上の知識はもちろん高等小学校程度の普通学まで修得させた。夜間教育にかかる費用は、六文銭の場合、教室の教具・設備に始まって、生徒の文房具類はもちろんのこと、松代小学校教師への謝金などをふくめて、年額四〇〇円以上におよんだ。

 松代地方では工女を各製糸場で養成するのが特徴である。六工社の場合、営業用釜数四〇三釜に対して、養成台が六八釜あり、六〇〇人ほどの工女のほとんどは自社で養成したものである。養成はまず義務教育の済んだものに半年間屑物(くずもの)整理をおこなわせ、熨斗(のし)糸を作らせた。このとき、工場内を往復するうちに、繰り糸の呼吸がつかめ、そのあと養成台で教師(教婦)の指導によって、一週間ほど手ほどきを受けると、ようやく糸をひけるようになり、さらに早いもので三ヵ月、遅くとも四ヵ月の訓練をうけるとかなり糸をひけるようになる。ちなみに、この練習期間に作られた下等糸は羽二重の原料になった。

 このように、養成期間があるため、農商務省編『職工事情』によって工女の地方別年齢構成をみると、一五歳以下の幼年者と二五歳以上の年長者が少なくないのが特徴的で、二〇歳前後のものが多い諏訪地方と、明らかな差異がみられる。したがって、同一製糸場での勤続年数も必然的に長くなり、二年以上三年未満の工女割合が最高で、五年以上勤続も一三パーセントいる。これも、諏訪地方では一ヵ年未満が最高となっているのと対照的である。同地方では工女争奪が激しいため、各製糸場の工女が一年で三分の二ないし四分の三は入れかわったといわれる。

 六工社の養成工女に対する年間一人当たり養成費は一四八円(明治四十年)に達したといわれるが、このような膨大な費用を投じて多数の工女を養成するよりも、熟練工女を他の製糸場から採用する方が経営的に手軽であるため、県外製糸場による工女獲得(募集)は熾烈(しれつ)をきわめた。実際、明治四十年に篠ノ井、屋代、大屋の各駅から他府県へ出稼ぎに出た工女は五〇〇人以上に達していた。このような弊害が発生するのは松代地方以外の工女の需要が急激であり、供給がともなわないことに原因があったといえる。六工社では熟練工女の結婚退職も年間五~一〇件あり、これでさえ製糸場主にとって、補充のむずかしい、頭の痛い問題であった。松代製糸業発展の頭打ちは、水の便の悪さにあったともいわれているが、明治末不況下の六工社、白鳥館の倒産の背後に、熟練工女不足が一つの大きな要因としてあったとみることができよう。