明治三十年(一八九七)の県下の工場を県統計書からみると、記載されている工場数は七二九社で、そのうち九七パーセントが生糸を中心とした繊維関連工場である。現長野市域では一六工場が記載されており、繊維関連工場は全体の七一パーセントで一二工場を数えるが、その比率や数は市域の広がりから考えてきわめて少ない。当時の長野市内ではそのうち六工場を数えるが、繊維関連工場は二社のみで、他は中村活版所、松木活版所、信濃新聞株式会社および岡本商行煉瓦(れんが)工場の四社である。本統計に記載されない小工場や、副業的に製造していた醸造業などはその数に加えられていないので工業の実際は明瞭にはならないが、長野市域は全県で先行していた繊維産業よりもむしろ印刷出版業が盛んで、県庁を控えた長野市の特色をあらわしている。
在来工業を代表する酒造業は、明治四年の酒株解放で一挙に多数の造り酒屋を生んだが、十年代半ばの不況と、二十九年までに整備された酒造税とによって、技術的な蓄積のないにわか酒屋はあいついで倒産した。現長野市域での酒造業の状況は正確にはつかめないが、上水内・更級・埴科・上高井郡・長野市の状況は表39のようであり、酒株解放で多数の造り酒屋出現をみた状況が明瞭である。しかし三十年代には安定的な数字となり、しだいに淘汰(とうた)されていったようすがわかる。
酒造業者はおたがいの結束のために「松尾講」を中心として酒造仲間を組んでいたが、あいつぐ増税から経営の防衛をし、価格の自主的協定に迫られた。そのようななか、明治三十一年酒造組合法が公布され、長野市域には三十二年十一月に北信酒造組合が結成された。構成員は三十四人で、組合長は長野町西之門町の藤井伊右衛門であった。
醸造業のうち味噌(みそ)および醤油(しょうゆ)製造に関しては、当時一般の住民は貧しい生活をしても食生活の必需品として味噌の蓄えはしていた。したがって、流通商品としての取り引きをなかなか生み出しえなかった。しかし、県庁をはじめとする行政組織がととのい、役人の移動が頻繁になったり、工場で働く工員が増加するなど味噌・醤油をもたない市民が増加するにしたがって、酒造業者や米屋などでは求めに応じて取り引きもされはじめた。そのようななかで明治十一年、長野町の一五人の醸造業者は「醤油稼同盟」を結成し、醤油相場の統一や技術交換をおこなった。初代組合長は西之門町の藤井伊右衛門であった。値段は表40のとおりであったが、味噌の値段は三十八年になってようやく「醤油稼同盟」で協定された。これは当時醤油醸造家の大部分は味噌の醸造も兼業していたことをうかがわせる。また二十年代末から三十年代の生産の推移をみると表41のとおりで、とくに明治二十八、三十年には長野市と上水内では多くの製造戸数になっている。しかし、これは生産高や金額に反映されていない。だが、とくに長野市では三十年以後着実にその生産をのばした。
あんずの栽培・生産は、松代町を中心とした南部地域と安茂里村を中心に盛んであった。安茂里村のあんずの栽培の起源は定かではないが、江戸時代前期にさかのぼるといわれている(『安茂里村史』)。明治期の安茂里村のあんずの栽培について、『信濃産業誌』(信濃教育会編)によれば、明治四十年ごろの長野県下の植樹数は約四万七千本、収穫高は九万石余りで、そのうち安茂里村の生産は一六五〇石、およそ六割は生食用に利用された。生産高はその年の気候等により大きく変動したようで、県統計書でも明治三十三年には三万石であったが、明治四十四年には七〇〇〇石になっている。生産されたあんずの四割ほどはあんず干しにされていたが、生もあんず干しも保存には向かなかった。ところが明治十五年、安茂里村の清水佐太郎が長野町の菓子商室川十蔵と共同して缶詰を考案した。また、二十五年には長野の菓子商高田屋らが蜜(みつ)漬けを製品化した。さらに、清水らは同じころあんずジャムの缶詰製造に着手した。このように当時の生活の洋風化とあいまってあんずの加工品製造が盛んにおこなわれるようになった。
その他の工業のなかで特色的なものの一つに、麻製品の製造があげられる。麻は県内各地で自家用として生産されていたが、輸入の綿布や大麻の影響を受け、生産は発展しなかった。しかし、上水内郡下では西山地方でその生産が顕著で、畳糸・畳縁布・蚊帳(かや)地に加工され長くつづいた。生産額は六一九一円で、長野県の一万二九一三円のほぼ五割を占め(明治三十九年県統計書)、特色的な産業となっている。三十一年一月に上水内郡長は、「麻糸および畳糸は上水内郡の重要な特産物で、評判も高い」としながらも、「最近粗製濫造(そせいらんぞう)が目立ち、信用を落として値段も下がっている。岐阜・石川・滋賀・福井の諸県に圧倒されている。目先の利益を追うばかりでなく声価を発揮するように」と諭告を出し、加工基準を示して品質の向上を呼びかけている。