長野商業会議所の設立

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商工業の発達をはかり、その利害を共通にする自治団体が形成されるのは自然であり、長野町では明治二十一年(一八八八)三月に長野商業協会が設立されている。その翌年一月には、長野商工会を発足させることになった。原信謹ら五人が創立委員になり、知事の認可を得たうえで同年二月十七日に東町の康楽寺で役員選挙がおこなわれた。会場には会員五三人が集まり、選挙の結果、原信謹会頭、臼井承副会頭、轟市右衛門幹事らが決まった。二十三年二月の康楽寺で開かれた定期総会では、営業組合を設立して商工業の実益をはかることが議題となり、議事のあとの談話会では小出八郎右衛門が商業手形の便益(べんえき)について講演している。このように、この時期の商工会は豪商ら名士の集まりであり、各種組合の要求を吸い上げるほどには成長していなかった。親睦(しんぼく)団体的な性格が強かったため、二十四年ころになると活動も不活発となり、『信毎』では、「長野商工会は音もなく、息も無く、惰眠(だみん)をむさぼって無駄な時を過ごしている」と評されている。二十八年ころには、同商工会の消息はまったくわからなくなっていた。しかし、いっぽうで同年九月になると、鉄道運賃問題が起こったさいの意見を代表する機関や、商工業者の意志を代表させ、その指南役としての団体の必要性がとなえられた。

 明治二十三年公布の商業会議所条例にもとづいて、二十八年に県内最初の上田商業会議所が設立された。このころ、鉄道貨物(生繭)の停滞などに対して同商業会議所あるいは県下製糸団体の運動は注目され、鉄道当局も一目置いていたが、長野商人の運動は個人的であるために、しばしば手前勝手ないいぐさと軽視され、腰を低くして頼みこむ結果にもなった。また、発足したばかりの長野市政にとって市区改正事業、引水工事、汚溝(下水路)改築工事、市役所新築、病院修築などが計画されていたが、これらをふくめた将来の「市是(しぜ)」を作成したり、諸事業による租税負担の増大にともなって収入源の発見につとめなければならなかった。こうしたさしせまった経済的・財政的諸問題を打開するためには、市役所のみでは対応できず、ぜひとも財界の協力・支援が必要であった。

 長野商業会議所の設立認可は、申請から一年近くたった明治三十三年五月十五日付けで農商務省からおりた。早速、翌月、市役所で設立発起人会が開かれ、会議所会員選挙の準備に入った。まず候補者選定委員として織物商組合、旅舎組合、魚商組合、質屋組合、雑貨組合から各一人と法人団体から二人があげられ、それに発起人が加わった。このころになると、組合は表42のようにいくつもでき、組織もしっかりしてきた。三〇人の会員定数に対して、各種商業組合は活発な動きを示し、続々と候補者として申しでた。九月に入って会員選挙事務所から三〇人の推薦候補者が発表されたが、その内訳は法人九(銀行四、新聞社二、長野電燈、信濃中牛馬会社、米株商品取引所各一)と各種商業組合から二一人であった。翌年一月二十四日に役員選挙があり、まず、会頭中澤与左衛門(信濃中牛馬会社)、副会頭藤井名左衛門(織物商組合)が選出されたあと、常議員に水品平右衛門(信濃新聞社)、宮下一清(長野新聞社)、羽田定八(長野電燈)が決まり、過半数の票が得られなかった残りの議席をめぐる決選投票の結果、北澤啓兵衛(肥料商組合)、前嶋元助(長野貯蔵銀行)、西澤喜太郎(長野商業銀行)、藤井平五郎(改良旅館組合)の計七人が決まった。その後、三十五年三月に従来の商業会議所条例にかわる商業会議所法が制定され、これによって会員資格がきびしくなり、その員数も五八〇人台から三〇〇人台に減少した。三十八年に編成された会議所予算の会費賦課方法によれば、加入者三〇五人に対して営業税割りのほかに所得税額に応じた人頭割りがあったが、後者は八等級に分かれており、五等以上(所得税五〇円以上)が計一六人、六等(同三〇円以上)一二人、七等(同一〇円以上)七二人、八等(同一〇円未満)二〇五人であった。


表42 長野市各種商業組合

 これに先立つ三十四年九月の総会においては、全国商業会議所連合会加盟が承認されたあと、渡辺仁兵衛・宮下甚左衛門らから提出された長野市に電話を架設する建議や、池田元吉提出の鉄道客車便賃銭引き下げ、碓氷(うすい)アプト式運行による貨車延滞に関して主務大臣へ改善を要望する建議などが満場一致で採択された。また、十二月の臨時総会では上水内郡内で生産される麻・麻布・畳糸の粗製濫造(そせいらんぞう)が取りあげられた。粗製品のなかには表面は良品でおおい、内側部分に粗悪品を詰めこむなど、商道徳にもとるものも出まわっていた。出荷先から送り返されるなど信用問題に発展し、それによって長野市の商業のうける打撃も無視できなかったので、商業振興上、生産者に改善をはかるよう注意書きを送ることになった。

 三十六年九月に新潟県上越の直江津(郷津湾)築港が建議として取りあげられた。その前年十二月の県議会で、「新潟県郷津湾築港ニ関スル意見書」が決議され、内務大臣あてに提出されたのをうけたものであった。北海道・ロシア産の貨物を安い運賃で県内に移入するためにはぜひ港が必要であった。もっともこの問題は、古くはすでに明治十一年に松代町居住の原昌誠(十三年より水内郡書記)によって提起され、かつ、直江津線(信越線)布設前後に盛りあがりをみせた新潟県頸城(くびき)三郡の長野県への合併運動と相呼応して浮上していた。