長野県をふくむ関東区府県連合共進会は、明治十四年(一八八一)から各府県で順番に開かれてきた。長野県では明治三十六年十一月の第二六回通常県議会で、物産陳列場基金管理規則が定められたことにより、県内で府県連合共進会を開くための準備が始まった。三十九年八月の臨時県会で県知事が連合共進会の件について諮問したところ、県内開催には異論ないが、開催場所についてはさらに調査を必要とすると答申され、ようやく同年の通常県会で長野市城山(善光寺の東隣)で開くことに決定した。決定にいたるまで議会では、長野、松本、上田の三派が誘致をきそい合い、十一月末日の議会では長野派の議員が顔色を失う場面もあった。また、長野市内でも早くから城山のほかに、善光寺裏のため池からその北方の水田地帯や県会議事院付近が候補地として話題になったこともあった。
場所が決定されたとき、長野市は金二万円の寄付と、共進会に必要な敷地を地主から買い上げのうえ、地ならしして無料で使用に供することを申しでていた。市では四十年六月に共進会の敷地に関係する地主と家主の各総代に対して至急買収・移転の承諾書を差しだすよう通知した。総代は同月五日に地主と家主を城山の説教場へ集め、承諾書に調印をさせて、市ではすぐに工事に取りかかった。長野市の共進会関係支出予定額は約一九万円に達していた。そのうち、敷地関係費六万六千余円のうち五万五六〇〇円は公債で調達した。そのほか県費支出が二〇万八〇〇〇円、長野県協賛会六万円など総額五三万円と見積もられていた。
共進会は各府県での回を重ねるごとに盛大になっていった。長野の場合、前回の山梨県甲府市での共進会と比べて、建坪は三四三七坪増の五二〇九坪、経費は八万五〇〇〇円増の一八万五〇〇〇円余、出品種類は二二増の六五種類などにみられるように、過去最大のものであった。このため、共進会というよりも小博覧会とみる向きもあった。丘上の城山館(じょうざんかん)記念公園と県社の一帯から下方に向かって数段に画して、約二万五千坪が会場としてあてられ、蚕糸館の独立と特許部と畜産部の新設、とりわけ馬匹(ばひつ)共進会の付設が今度の共進会の特色であった。その結果、本館のほかに農林館、蚕糸館、畜産館、工芸館、特許館が配置された。これら施設の入場者を増やすために、各館ともいろいろ工夫をこらした。そのなかで、工芸館に出展していた市内のある呉服店の展示着物の裾模様に対して、長野新聞社が金一円で二五本の懸賞金をかけて、その図柄が何を意味しているかを答えさせようとした。ただし、答えは同紙刷りこみの用紙に記入することという条件がついていた。さらに入場をうながしたのが、会場内の演芸館、絵画展覧会、不思議館、博物標本、活動写真、覗き眼鏡(のぞきめがね)、観戦鉄道などの催し物であった。また、十一月三日には接待館において共進会協賛会によって戸隠神社と生嶋足嶋(いくしまたるしま)神社の神楽が奉納された。
九月二十日に招待者三〇〇〇人、出品人合わせて五〇〇〇人が参列して開会式が、十一月十日に閉会式がおこなわれた。雨に始まり、雨で終わった共進会であったが、出品点数は六万点余にのぼった。入場者数は六六万五〇〇〇人で予定の五〇万人を大幅に上まわった。そのうち九万二〇〇〇人は小・中学生、一万六〇〇〇人は製糸工女ほかの一〇〇人以上の団体であった。
共進会はにぎやかないっぽうで問題点も生じていた。すなわち、共進会関係者はたいへんな忙しさにかまけて、事務はおざなりとなり、共進会の主旨である出品物そのものについて研究したり、後日の産業発展に役立てるために着実な注意を払うことはとうてい不可能であった。
ベンチや便所を増やすなど会場施設に対する要望も出されていた。便所については場内には断崖(だんがい)が多いので、便所が見えながら迂回(うかい)しなければならず、時間がかかるということであった。奏楽堂の演奏は西洋の古典音楽ばかりで、演奏にあわせて踊れるようなもの、なじみやすいものが望まれた。会場内の演芸館の催し物としての権堂芸妓(げいぎ)の手踊りや、見せ物興業場の奇怪な服装をした婦人の出し物は観客を集めるためには効果的であったが、風紀上、まゆをひそめるものもあった。
共進会中、夜のイルミネーションは壮観であった。電球の数は総計一万一〇八四個備えられていた。このほか街のようすもつぎのようにはなばなしかった。一二〇〇燭(しょく)光のアーク灯が六基各所に建てられた。信濃電気会社吉田工場のアセチレンガス広告塔などもことごとく光り輝いていた。停車場前には大アーチが掲げられた。松葉で直径三尺、間口五間、高さ六間、これに花電灯をちりばめ、国旗と市旗を高くかざし、杉葉を刈りこんで長野市の三文字をあらわした。
十一月五日は共進会褒賞(ほうしょう)授与式と全国煙火(はなび)大競技大会がおこなわれた。授与式には大浦農商務大臣が臨場し、農産物部門では現長野市域の更級郡青木島村小池勘之助(桑苗)、同真島村中澤源七郎(果実)、上高井郡綿内村上野仁太郎(米)、同保科村山岸健次郎(麦)がそれぞれ受賞している。煙火大会のために東之門町や大門町の宿屋は夕刻すでに一軒残らず客どめになった。横沢町の木賃宿は八軒とも他の宿へ泊まることができない客が流れこみ、夜八時ころには満室になった。このようなことは、明治十一年の明治天皇巡幸以来であった。
風俗上の取り締まりを受ける営業者の数を比べてみると、人力車、貸し座敷、芸娼妓(げいしょうぎ)は一年前よりはるかに増加している。貸し座敷は数だけでなく、それぞれの使用畳数も増えている。また、人力車夫の三七人増はもっともいちじるしい。人力車夫のなかには不当な賃銭を要求するものがあり、警察では頭を痛めていた。警察は旅宿・料理店・貸し座敷などに対して、乗客に標準額を示してトラブルの発生をおさえるよう指導していたが、おおぜいの車夫に対する取り締まりは不徹底になりがちであった。