旅客と商売

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旅客を運ぶ交通手段のうち、人力車の利用は裕福(ゆうふく)なものに限られ、庶民にとってはぜいたくなものであった。明治三十一年(一八九八)の長野市中の人力車営業者数は一一七人でみな挽(ひ)き子(車夫)を兼ね、そのほか雇(やと)われ挽き子一七四人、あわせて二九一人が走りまわっていた。挽き子の収入は一日三〇銭から四〇銭、平均三五銭程度で、市内に落とされる総額は一日一〇〇円以上になった。雇われ挽き子の一ヵ月の収入一〇円五〇銭から、食料五円をはじめ夜具料などを差し引くと、手元に残るのはわずか二円ほどで、とうてい支出をまかなえないため、かれらは臨時収入を当てこんで賭博(とばく)などに走りがちであった。

 人力車の利用者は汽車の乗降客、遊郭(ゆうかく)への遊び客、松代・須坂などに用のある客などが多く、急ぎの用で利用するというよりも、疲れないためであった。料金は長野停車場から鐘鋳(かない)川までは六銭、それ以北は八銭などと、行き先ごとに決められていたが、なかなか守られなかった。


写真24 ガス灯もある呉服店へ人力車で買い物に
(明治37年『長野繁盛記』より)

 三十年代の長野市内の宿屋には、大別して下宿屋、木賃(きちん)宿、旅人宿があった。下宿屋は七〇軒あり、建物のほとんどは従来からの住宅を改造した粗末なもので、下宿屋として建てられたものは数軒にすぎなかった。その借り主は官吏(かんり)、教員、会社員などが主で、学生は少なかった。木賃宿は城山、横沢、新町などにあったが、全部で一七軒にすぎなかった。その宿賃は、宿を借りるだけのもの、ふとんを借りるもの、薪(たきぎ)代を支払うものなどによってさまざまであったが、米と薪を出して炊事(すいじ)をしてもらい、粗末なふとんを持参するものが多かった。宿主はこの宿を利用するものから米と薪のいくぶんかをはねて利得とした。この利用客は下等興行師などで、部屋の畳一枚にたがいに足を重ね、顔をすり合わせ、臭気に満ちた空気のなかで、苦もなく平然と眠った、と『信毎』は報じている。

 旅人宿は二一三戸あり、一戸平均五人泊まるとして、一人平均四五銭で、一ヵ月の宿泊料は単純計算で一万四千余円におよぶ。さらに立ち入って客筋をみると、大門町のような表通りでは一夜の客が多く、善光寺詣(もうで)が七割、旅の途中泊が三割であったのに対して、権堂、東之門、横沢などの裏通りでは滞在者が目だち、その九割は長野での用足しであった。宿泊客の出身地をみると、おしなべて新潟地方から来たもの三割、関東・関西方面からが四割、県内二割、その他一割であった。ここからも善光寺参り客が多いのは明らかで、長野市繁栄策の一つは善光寺を中心に考える必要があった。

 明治二十四年の火災によって元善町が大きな被害を受けたことを教訓として、長野町会は善光寺を保護するために、元善町に対して家屋制限法を決定した。大勧進と大本願の両寺と関係住民はそれに服していたが、そのうちに違反が目だってきた。もともと元善町は両寺の貸し地で、両寺はその借地人に対して同法を守るよう管理する立場にあった。店をかまえる借地人は家屋建築のさい、おもての柱は制限どおり一丈(三メートル)の長さに制限しても、裏の柱はなるべく高くし、制限を数尺(一尺は三〇センチメートル)も上まわって、二階造りの様相を呈したものもあった。あるいはいっぽうで、元善町駒返橋以北の住民からいくたびか、不燃性の高い塀を築き、そのうえ家をれんが造りにするから許可してほしい旨の申請が出されたが、認められなかった。そこで関係住民は協議のうえ、現存の家屋は十八年中に当局の許可を得て新築したものであるから、よそへ移転させようとするならば、町会はそれにともなう費用を補償すべきであるとして、五〇〇〇円を請求してきた。

 暗礁に乗り上げたこの家屋撤去問題は、三十三年には訴訟ざたにまで発展したが、三十六年四月になってようやく解決の見通しがついた。長野市区長会は平和的解決を願って調停に乗りだし、何十回となく関係者と交渉を重ねて三年の月日をかけた。大勧進、大本願、元善町、区長会の代表が集まって、つぎのような調停契約書を作った。元善町借地人の家屋はれんがまたは土蔵造りとし、柱たけは一丈四尺五寸、奥行き四間以内、屋根は瓦(かわら)か鉄板とする。この条件に触れるものは今後改造すること。ただし板葺(ぶ)き屋根はただちに改造する。賃貸借契約期限は地上権三〇ヵ年と定める。地主の大勧進・大本願はすみやかに訴訟を取り下げる、などであった。