銀行と庶民金融

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明治二十六年(一八九三)に第六十三国立銀行は稲荷山銀行に吸収合併されたが、行名は知名度を考慮し、そのまま引き継がれた。その後、法改正により三十年七月から私立銀行になり、六十三銀行と名前が変わった。本店は合併時点から稲荷山町(更埴市)にあったが、三十六年に長野支店内に調査部が設けられて以来、事実上そこが本店の役割をになうようになった。またいっぽうで、長野実業銀行が小林久七を頭取として明治三十六年十二月から長野市新町で営業を始めた。


写真25 明治33年7月更級銀行創業期の株券 (中村助夫所蔵)

 明治三十年代は銀行乱立の時期であり、このほか多くの零細(れいさい)銀行が設立されている。更級郡東福寺村東福寺銀行(三十一年)、共和村小松原銀行(三十一年)、青木島村川中島銀行(三十一年)、埴科郡寺尾村北埴銀行(三十三年)、上高井郡綿内村綿内銀行(三十年)、上水内郡七二会村共通銀行(三十三年)などが営業を始めた。そのなかにはすぐに破綻(はたん)したものもあったが、三十九年末には表43-1のように一五行を数えた。そのほか、現長野市域には東京の銀行である田中銀行の長野支店など一六支店が営業活動していた(表43-2)。


表43-1 長野市域にある銀行の本店と支店


表43-2 (明治39年)

 のちの勧業銀行の前身である長野農工銀行は明治三十一年三月に長野市県町に設立された資本金一〇〇万円の特殊銀行で、長野県内の普通銀行が製糸業者を相手に営業をしていたのとは対照的に、農業関係者に対して積極的な貸し付けをおこなった。それは明治三十年代で、償還期間三〇年の年賦償還貸し付けが貸し付け総額の七十数パーセントから八〇パーセント台を占めていたが、さらにそのうち、農業関係者に対する貸し付け割合が八十数パーセントから九〇パーセントを占めていたことからもわかる。開墾(かいこん)・排水、植林、農業改良などがその主な使用目的であった。


写真26 長野農工銀行
(「御大典紀念写真帳」より)

 つぎに郵便貯金の増加状況を長野市内についてみると、三十六年まで年末残高は一万円台であったが、日露戦争期の三十七年から三十八年にかけて二万三〇〇円から四万三〇〇〇円へと急速に増加している。とりわけ三十八年には預け入れ口数が倍増していることから、一口当たりの貯金額は小口化しており、庶民からの戦費調達をとなえた政府の意図が功を奏した。しかし、その反動として三十九年の払い出し額は前年の三万六〇〇〇円から八万三〇〇〇円へ、二、三倍の増加ぶりを示している。

 これと同じく、庶民の零細な資金を預かる金融機関として長野貯蔵銀行があった。相談役として信濃銀行の重役が名を連ねていることから、同行と深いかかわりをもっていたと考えられる。明治十三年十二月の開業以来、貸し付け・手形割引・公債証書の買入・他銀行への預入業務をおこなってきた。この銀行の預金は三十年代において順調にのびてきたが、日露戦争が始まると、多額の預金が引き出されて、三十六年十二月の二八万九〇〇〇円から三十七年六月の二五万四〇〇〇円に激減した。ちなみにこの半年間に西沢喜太郎を頭取とする長野商業銀行では、定期預金・貯蓄預金ともに増えている。

 銀行業に似た業務をおこなうものに銀行類似会社があり、その規模は零細で、為替(かわせ)、両替(りょうがえ)、貸し付け、預金をおこなった。養蚕地帯では銀行の資金貸し付けの恩恵に浴(よく)さない信用力の乏しい零細営業者・農家などが銀行類似会社の貸し付け対象であった。長野県内の銀行類似会社数が明治十八年に一一〇社と最高を示していたとき、私立銀行数は三〇行、国立銀行は四行にすぎなかった。明治十七年(一八八四)六月の「私立銀行並銀行類似会社」一覧によれば、銀行類似会社は長野市域に三社あった。それは、氷鉋(ひがの)貯積社(資本金三〇〇〇円、更級郡下氷鉋村)、融通会社(同三〇〇〇円、松代町)、立産義社(同九五〇円、松代町)で、いずれも明治十四、五年の創業である。

 このうち、松代融通株式会社の明治十八年三月の「融通会社仮規則」によれば、飯島勝休を社長として社員は九人(士族)で、出納(すいとう)、貸し付け、取り立ての役職を交代でになった。会社設立の要旨によれば、自家の私利ではなく、金銭の融通によって大衆の緩急(かんきゅう)に応じ、広く公利を興すことを目的とした。社員は信義を重んじ、廉恥(れんち)の道を守って、一同利害をともにしつつ、同心協力精励勉強して、もし懸念(けねん)する事件があったら忌憚(きたん)なく討論研究熟議(じゅくぎ)のうえ実行する、としている。

 ところで、このような主旨にもとづいた同社の貸し付けが、当時の代表的銀行の信濃銀行(資本金五〇万円、三十年より一〇〇万円に増資、頭取小坂善之助)と比べて、社会的にどのような役割を果たしていたかをみると、図5のようになっている。両社とも二十年代の貸し付け高は六月に多く、十二月には減っている。これは製糸業地帯の特徴で、製糸会社が繭を買う資金を借り、十二月には返済するためである。ところが三十年代後半になると、銀行はこの特徴を維持しているのに対して、銀行類似会社の松代融通株式会社では貸し付け額自体が大幅に減少したばかりか、両月の貸し付けに変化がなくなっている。すなわち、これは製糸会社への貸し付け関係がきわめて薄くなったことのあらわれといえよう。松代地域の製糸業に深く関与すると思われる銀行の貸し付け額は、三十五年六月で、信濃銀行二一一万円(本店長野市)、六十三銀行(同稲荷山町)一一九万円、大里銀行(同松代町)五万円、西條銀行(同松代町)四万八〇〇〇円となっている。これに対して同期の松代融通株式会社は二万二〇〇〇円にすぎない。さきにみた同社の十八年の規則によれば、貸し出し利子率は年一五・六パーセント以下とされているが、この高利率は零細金融機関の宿命であり、松代町の大製糸会社各社は近隣の大手銀行や大里忠一郎の関係する銀行との結びつきを強めていった。その結果、松代融通会社は貸し付け対象を一般大衆や小営業者に限定せざるをえなかった。貸し付け額が減っているにもかかわらず、所有公債証書が増えているのは貸し付け先に不自由している証拠である。


図5 銀行と銀行類似会社の貸し付け
(『信濃毎日新聞』掲載各期営業報告書より作成)

 庶民金融としてもっとも身近に利用されていたのは質屋であった。図6は市郡別の年末貸し出し金残高を示したものである。更級郡の一口当たり貸し出し残高は五郡市のうちでもっとも高く、二円から一三円の開きはあるが、三十八年までは長野市に次ぐ高さになっている。三十年からの長野市はきわめて高額であるが、質屋軒数が三十七年から三十九年まで六八ないし六九店と他の年の五十数店に比べて一〇店を上まわっている。このことから店舗数が貸し付け総額に影響していることがわかる。


図6 質屋の貸し出し金(年末現在)
(県史近代別巻統計より作成)

 長野市質屋の三十七年の貸し付け利率は貸し金二五銭以下は一ヵ月金一銭、一円以下は一ヵ月四パーセント、五円以下は同三パーセント、三〇円以下は同二・五パーセントであった。流質期限は法律上、六ヵ月であったが、特約として三ヵ月、一ヵ月があった。また、火災・盗難・ねずみ、虫食い・雨漏(も)り・毀損(きそん)などは質屋の損失とされた。同年の年間受け戻し金の八万八四〇〇円(一〇〇・〇)に対して流れ金は一〇五四円(一・二)程度にすぎなかったが、三十三年の場合では流れ金比率は八・九で最高に達している。

 ここで、長野市西町の一質屋の明治三十七年五月から翌年四月末まで一年間の貸し付け状況をくわしくみると、貸し付け件数は一七〇〇件であった。そこからつぎのようなことがわかる。①質物は衣類が圧倒的で、九割かたを占めている。そのほかの目だつものとしては、仏具、蚊帳(かや)、懐中時計、べっこう櫛(くし)、三味線バチ、銀煙管(ぎせる)、こうもり傘などがあげられる。「銀側両ぶた懐中時計」は最高四円の質種(しちぐさ)であった。②質入れ人の住まいは西町を中心とする長野市内が圧倒的である。そのほかでは上水内郡三輪・浅川・若槻・古牧・東風間の各村や更級郡青木島・中津・御厨(みくりや)村住民なども散見される。また、長野市西長野第三教校(僧侶養成学校)生徒もしばしば利用している。③貸し付け最高額は、長野市東町のものへ三十七年十月に貸した一二三円である。そのときの質物は衣類四一点とべっこうかんざしなどであったが、すべて受け戻している。

 質屋と並んで庶民金融の代表的なものに、無尽(むじん)・頼母子(たのもし)講がある。明治四十一年十二月の『報徳社(ほうとくしゃ)台帳』(県庁文書)によれば、報徳社創立の時期は、調査時点の四十一年かその一~二年前がほとんどで、まれに明治三十五、六年があるにすぎなく、短命であった。またその史料から、現長野市域の報徳社を摘出(てきしゅつ)すれば、更級郡一九社、埴科郡二社、上水内郡二社であり、更級郡内の結社が目だっている。